地磁気の逆転があるというのは、いまや疑う人がいないが、京大の松山 基範氏は、世界ではじめて実証(玄武洞、第四紀初頭の岩石比較、夜久野の岩石を対照に)した人、しかも1920年代という早さで実証している。イギリスやアメリカの研究者が海底の地磁気逆転を発見してから俄に地磁気の逆転が定説になった。海洋底拡大速度、大陸移動などの研究に重要な発見は米英の研究者の独壇場の成果と思われている。しかし、常識破りの仮説を実証した日本人研究者がいたことを忘れてはならない。
松山 基範の発見は恩師にも理解されなかったらしく、「君の言うことは地球の重力が下から上に向かっていったようなものだ。」と叱責されたと、伝記「日も行く末ぞ久しきー地球科学者松山 基範の物語ーp83に書かれている。この頑迷なアカデミズムを破って論文が世にでる(学士院紀要 1929年)きっかけとなったのは、寺田寅彦の推薦だった。
松山 基範(まつやま もとのり、1884年10月25日 - 1958年1月27日)は、日本の地球物理学者・古地磁気学者。松山逆磁極期の始まり(258万年前)をもって第四紀の始まりとすることになりました。 2009年6月30日、国際地質科学連合(IUGS)執行委員会は長年、地質区分として不確定であった第四紀を正式な紀/系として認め、その始まりをこれまでの181万年前から258万年前に変更する新たな定義を批准しました。松山逆磁極期とは,松山基範先生(1884-1958)が、地質時代において地球磁場が逆転していたことを世界で初めて発見し,その2功績からが名づけられたものです。これがひとつの指標となったということは,日本の地球科学にとって嬉ばしいことです。
チバニアンが認定される
捕鯨業の近代化と養殖放流事業の先駆者
日本人として初めて電池を製作したのは佐久間 象山(1811年~1864年)であるとされています。電池は「ダニエル電池」(液体式)と思われます。
明治時代に、乾電池が世界に先駆けて日本で誕生しました。その発明者は屋井 先蔵(やい さきぞう)氏です。ただ、残念なことに、氏の作った会社は現在存在しません。
さて、屋井氏は文久3年(1863年)、新潟県の長岡に生まれました。明治8年(1875年)(13才)東京の時計店に丁稚として入りました。
明治18年(1885年)(23才)、電池で正確に動く「連続電気時計」の発明に見事成功し、明治24年(1891年)、特許として認められました。これはわが国の電気に関する初めての特許でした。
しかし、使用した電池は液体式のダニエル電池などで、手入れが必要なうえ、冬場は凍結して使えないなどの欠点がありました。そこで本格的に「乾電池」の開発に取り掛かりました。
日中は会社の仕事、夜は電池の開発を続け、3年間は平均睡眠時間が3時間程度でした。理科大学実験付属の職工となって頑張りました。学者ともよく相談したようで、屋井は産学協同の先駆者とも云えます。
正極に薬品が沁み出して、金具が腐食して使えなくなることが問題で、この改良に苦労していましたが、炭素棒にパラフィンを含浸することにより明治20年(1887年)「乾電池」を発明しました。
屋井乾電池 しかし、日本における乾電池の特許の第一号は屋井ではなく、高橋 市三郎氏です。海外ではドイツのガスナー、デンマークのヘレセンが1888年に乾電池を発明したことになっています。
明治27年に日清戦争が勃発し、ある日発行された号外で、満州において使用された軍用乾電池の大成功に関する記事が掲載されました。従来、液体型の電池が使われていましたが、満州の寒気に乾電池だけが使用でき、号外で「満州での勝利はひとえに乾電池によるもの」と報道されました。新聞はこの乾電池が屋井のものであることを聞きつけ、翌日の新聞にこれを書き立てました。
明治時代の屋井乾電池販売部 明治43年神田区錦町一丁目に販売部を新築し、同時に浅草神吉町に工場を設けました。海外品との競争に勝ち、国内乾電池界の覇権を掌握するまでに発展し、「乾電池王」とまでうたわれるようになりました。
大正時代の携帯電灯 昭和2年(1927年)若いころからの刻苦勉励がたたったのか、胃がんに侵され、急性肺炎を併発して急逝しました。享年66歳でした。屋井乾電池は、残念ながら後継者に人を得なかったようで、昭和25年に屋井乾電池の名は乾電池工業会の名簿から消えた。
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