安岡正篤が考える人生の関、小成の危機、自己分裂の危機に対処する「心に一処に対す」の心得。出光佐三の次の言葉にも通じる。
出光佐三は70歳の時、それまでの事業の苦労を振り返った後に、若者にこのようにメッセージを残しています。
『人生というものは老後にあるのだ。君らが六十くらいになって過去を顧みて、過去六十年間というものは、ああ六十年間だったというだけで、一瞬にすぎない。..(略)..それだから過去は短い、将来は長い、それならば過去にいいことをして将来に楽しめというのが私の人生観である。』昭和30年7月(臨時増刊「財界人物」掲載「人間尊重五十年」p416~417
仕事に魂を入れて何十倍もの関を超えて、どんどん開けていった体現者がこういうのだから間違いはなかろう。人生は老年に開くもの、過去は短く老年は長い。たとえ人生最後の一日でもそれまでの人生年月より長い。
なるほどねえ。死が単に抽象的な終末と思う程度では(「蠅」のショーペンハウエルを参照ください)、なまなかにこの言葉は出てこない。
出光佐三の求めた掛軸の賛には、鶴は千年、亀は万年、我は天年 と書かれていた。
中島みゆき
甘えてはいけない
時に情けはない
手放してならぬ何かを
間違えるな
という歌詩があるらしい。天が与えた時間は根源的情けであるが故に人間にとっては非情であることによって一貫するという言葉が我は天年
照宇一隅
『 人間は「始めあらざるなく、終わりあるは鮮(すくな)し」ということがある、というよりも、むしろそうなりがちなのであります。禅家に、「関(くわん)」と言う言葉があります。「喝(かつ)」とか「咄(とつ)」とかいうことはよく知っていますが、「関」という言葉は、わりに一般の人は参禅でもされないとご存知ないかもしれません。
禅家では関という一語をよく浴びせかけるのであります。関とは字のとおり関(せき)ということであり、すなわち、引っかかり、行き詰まりであります。
人間の一生は、特に若い人が考えているように、なかなか坦々たる大道ではありません。思いがけないところで、しばしば行き詰まりにぶつかるのであります。
人生は、しばしば出会わねばならぬ関所を幾つも通り抜ける旅路であり、そこで一関、二関はうまく抜けても、三関、四関となると、往々にして、その関所を通ることができず、挫折する、引き返すことになりがちです。そこが関所だ。そこを通り抜けろ。という意味で、よく「関」ということを指示するのであります。
辛抱して、努力して、関を何関か通りますと、特に難解難透というようなことを禅僧がよく申しますが、難しい、解き難い、通り難い、すなわち、難解難透の関をいくつか通りますうちに、ついに真の自由―古い言葉で申しますと、無礙自在(むげじざい)というような境地に到達して、すなわち「無関に遊ぶ」こともできるようになります。
最初が非常に大事であります。のみならず、そういうことがあるものですから、人間というものは、とかく意外に早く成長進歩が止まるものであります。
言葉を換えて言うと、小成に安んじがちであります。もっと平たく申しますと、案外早く若さを失うものであります。早く年をとるものであります。いわゆる所帯じみるのです。
これは青年時代にはちょっと分からないと申してよい。案外早く年をとってしまうとか、若固まりになってしまうとか、若朽するとか、若朽とまではならずとも、まあまあ平々凡々になってしまう、と言われても「そんなことがあるものか」と思うのですが、事実、多くの人は案外早くそうなるのです。
人間は小成に安んじないように、意外に早く固まってしまわぬように、伸びが止まらないように、いつまでも若く、いつまでも伸びていく、いつまでも進歩発展していくことが大事なので、若い時に成績が良かったということよりも、いつまでも年をとらない、いつまでも伸びていく、年と共によく変化していき、途上の難関を幾関か通って無関に遊ぶということが大切なのであります。
「始めありしことはもとよりのこと、終わりをもまた善くする」ということが、いかに人生にとってめでたいことであり、また難しいことであり、尊いことであるか、これは、よほど苦労せぬと分からぬことであります。そこで、昔からいろいろの意味で若さということを皆が羨ましがるのです。 』『 その心がけがまず大事でありますが、これに良いことは、まず第一に、絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということであります。純一無雑の工夫をする、全力を挙げて仕事に打ち込んでいくことであります。
人間に一番悪いのは雑駁とか軽薄とかいうことでありまして、これは生命の哲学、創造の真理から申しましても明らかなことでありますが、これほど生命力・創造力を害するものはありません。また生命力・創造力が衰えると、物は分裂して雑駁になるものであります。これがひどくなると、混乱に陥ります。人間で申しますと自己分裂になるのです。
そこで絶えず自分というものを何かに打ち込んでいくことが大切であります。
何ものにも真剣になれず、したがって、何事にも己を忘れることができない。満足することができない。楽しむことができない。したがって、常に不平を抱き、不満を持って何か陰口を叩いたり、やけのようなことを言って、その日その日をいかにも雑然、漫然と暮らすことは、人間として一種の自殺行為です。社会にとっても非常に有害です。毒であります。
禅ばかりでなく、仏教人においてよく知られておる言葉でありますが、「心に一処に対すれば、事として通ぜざるなし」(対心一処無事不通)という名言があります。「心に一処に対す」ということが勘どころです。我々は今のように、自己と仕事というものが分裂していては駄目なのであります。自己というものを本当に仕事に打ち込んでいく。そうすると自分の対象である仕事は、自己と一つになることによって精神化される。すなわち対象に魂を入れる。これが「対心一処」であります。
しからば物に対する―事に対するのではない、事物と自己とが一つになることによって、対象はすなわち自己になる。自己が昇華するself-sublimationというもので、そうすると、どんどん物事が解決していく。これがいわゆる「無事不通(事として通ぜざるなし)」であります。
まず第一に、我々がどこまでも若朽しないためには、「対心一処、無事不通」で、自分を仕事に打ち込んでいく
――絶えずこういう習慣をつけることであります。
小成に陥ってしまわないために、さらに有効な第二の心がけは、「交わり」ということです。交際、交わり、付き合い、これを絶えず注意することであります。物には慣性というものがあります。人間には因襲というものがある。いわゆる型というものがあって、同じような人ばかり、同じようなことを考え、同じような話をし、同じようなことを繰り返しやっておりますと、非常に単調になる。単調になると、これは人間の習慣性で、生命、精神が鈍ってくる、眠くなる。人間が眠くなると溌剌たる創造性を失ってくる。
絶えず自己を眠らさないためには、ここにおいてグループ、交友を慎むことであります。その交友には、できるだけ変化のあることが必要なのです。
そこで自分とは専門違い、畠違いの良友を持って、絶えず変化のある話を聴くことであります。これは実に有効です。
つまり、いつも同じような人間が集まって、同じようなことを考えて、同じような話をして、同じようなことをして終わってしまわないように、努めて変わった人に会って、変わった話を聴いて、変わった考え方を教わって、そして自分を生かしていくのです。
ところが、たいていの人は、その会社内、その課内、官庁の同じ部局というように、同じような人間だけが集まってsectionalになる。sectionalになると、今のように、考えも言葉も行為も、皆同じく型にはまってしまう。そうすると眠くなる。同じ会社の内におっても、絶えず良い意味において変わっている交友を持つ。会社におるならば他の課、官庁とか、あるいは思想界とか芸術界とかの変わったところの交友を持つように心がける。
自分を絶えず変化させる。弾力あらしめるように心がけられると、皆さんのおためになります。
なんでも真理は同じことであります。学問でもさようであります。漢学者は漢学の本ばかりを読んでいる。漢学者とばかり付き合っている。国学者は国学の書物ばかり読んで、同じ国学者とばかり付き合っている。英文学者は英文学者、ドイツ哲学者はドイツ哲学者とばかり、法律家は法律家、皆自分の専門、専門というところばかり立て籠もって、象牙の塔の暮らしをしておりますと、実に早く思想が駄目になる。頭がこわばってしまうのです。そこで、思想・学問の秘訣は努めて専門外の人たちと適度の交流をすることです。
「あれは俺の専門外であるから、あんなものは関係ない」などと考えるのは、これは一番浅薄な頭脳です。往々にして、いわゆる専門家というものは居眠っているのであります。ですから、専門外というものを、専門に結びつける。今までのような、分析、解剖anatomyではなく、綜合。専門と専門の交流、綜合というものが学問においても必要でありますが、それは我々の交友というものにおいてもやはり然りで、ケチな考えで、あいつは畠違いだ、というようなことを考えてはならないのであります。「専門外だ」ということを軽々に言ってはならないのであります。むしろ専門外こそ専門内で得ることのできないものを得られるのだ、というだけの心構えをお持ちになる方がよいと思います。 』
禅家では関という一語をよく浴びせかけるのであります。関とは字のとおり関(せき)ということであり、すなわち、引っかかり、行き詰まりであります。
人間の一生は、特に若い人が考えているように、なかなか坦々たる大道ではありません。思いがけないところで、しばしば行き詰まりにぶつかるのであります。
人生は、しばしば出会わねばならぬ関所を幾つも通り抜ける旅路であり、そこで一関、二関はうまく抜けても、三関、四関となると、往々にして、その関所を通ることができず、挫折する、引き返すことになりがちです。そこが関所だ。そこを通り抜けろ。という意味で、よく「関」ということを指示するのであります。
辛抱して、努力して、関を何関か通りますと、特に難解難透というようなことを禅僧がよく申しますが、難しい、解き難い、通り難い、すなわち、難解難透の関をいくつか通りますうちに、ついに真の自由―古い言葉で申しますと、無礙自在(むげじざい)というような境地に到達して、すなわち「無関に遊ぶ」こともできるようになります。
最初が非常に大事であります。のみならず、そういうことがあるものですから、人間というものは、とかく意外に早く成長進歩が止まるものであります。
言葉を換えて言うと、小成に安んじがちであります。もっと平たく申しますと、案外早く若さを失うものであります。早く年をとるものであります。いわゆる所帯じみるのです。
これは青年時代にはちょっと分からないと申してよい。案外早く年をとってしまうとか、若固まりになってしまうとか、若朽するとか、若朽とまではならずとも、まあまあ平々凡々になってしまう、と言われても「そんなことがあるものか」と思うのですが、事実、多くの人は案外早くそうなるのです。
人間は小成に安んじないように、意外に早く固まってしまわぬように、伸びが止まらないように、いつまでも若く、いつまでも伸びていく、いつまでも進歩発展していくことが大事なので、若い時に成績が良かったということよりも、いつまでも年をとらない、いつまでも伸びていく、年と共によく変化していき、途上の難関を幾関か通って無関に遊ぶということが大切なのであります。
「始めありしことはもとよりのこと、終わりをもまた善くする」ということが、いかに人生にとってめでたいことであり、また難しいことであり、尊いことであるか、これは、よほど苦労せぬと分からぬことであります。そこで、昔からいろいろの意味で若さということを皆が羨ましがるのです。 』『 その心がけがまず大事でありますが、これに良いことは、まず第一に、絶えず精神を仕事に打ち込んでいくということであります。純一無雑の工夫をする、全力を挙げて仕事に打ち込んでいくことであります。
人間に一番悪いのは雑駁とか軽薄とかいうことでありまして、これは生命の哲学、創造の真理から申しましても明らかなことでありますが、これほど生命力・創造力を害するものはありません。また生命力・創造力が衰えると、物は分裂して雑駁になるものであります。これがひどくなると、混乱に陥ります。人間で申しますと自己分裂になるのです。
そこで絶えず自分というものを何かに打ち込んでいくことが大切であります。
何ものにも真剣になれず、したがって、何事にも己を忘れることができない。満足することができない。楽しむことができない。したがって、常に不平を抱き、不満を持って何か陰口を叩いたり、やけのようなことを言って、その日その日をいかにも雑然、漫然と暮らすことは、人間として一種の自殺行為です。社会にとっても非常に有害です。毒であります。
禅ばかりでなく、仏教人においてよく知られておる言葉でありますが、「心に一処に対すれば、事として通ぜざるなし」(対心一処無事不通)という名言があります。「心に一処に対す」ということが勘どころです。我々は今のように、自己と仕事というものが分裂していては駄目なのであります。自己というものを本当に仕事に打ち込んでいく。そうすると自分の対象である仕事は、自己と一つになることによって精神化される。すなわち対象に魂を入れる。これが「対心一処」であります。
しからば物に対する―事に対するのではない、事物と自己とが一つになることによって、対象はすなわち自己になる。自己が昇華するself-sublimationというもので、そうすると、どんどん物事が解決していく。これがいわゆる「無事不通(事として通ぜざるなし)」であります。
まず第一に、我々がどこまでも若朽しないためには、「対心一処、無事不通」で、自分を仕事に打ち込んでいく
――絶えずこういう習慣をつけることであります。
小成に陥ってしまわないために、さらに有効な第二の心がけは、「交わり」ということです。交際、交わり、付き合い、これを絶えず注意することであります。物には慣性というものがあります。人間には因襲というものがある。いわゆる型というものがあって、同じような人ばかり、同じようなことを考え、同じような話をし、同じようなことを繰り返しやっておりますと、非常に単調になる。単調になると、これは人間の習慣性で、生命、精神が鈍ってくる、眠くなる。人間が眠くなると溌剌たる創造性を失ってくる。
絶えず自己を眠らさないためには、ここにおいてグループ、交友を慎むことであります。その交友には、できるだけ変化のあることが必要なのです。
そこで自分とは専門違い、畠違いの良友を持って、絶えず変化のある話を聴くことであります。これは実に有効です。
つまり、いつも同じような人間が集まって、同じようなことを考えて、同じような話をして、同じようなことをして終わってしまわないように、努めて変わった人に会って、変わった話を聴いて、変わった考え方を教わって、そして自分を生かしていくのです。
ところが、たいていの人は、その会社内、その課内、官庁の同じ部局というように、同じような人間だけが集まってsectionalになる。sectionalになると、今のように、考えも言葉も行為も、皆同じく型にはまってしまう。そうすると眠くなる。同じ会社の内におっても、絶えず良い意味において変わっている交友を持つ。会社におるならば他の課、官庁とか、あるいは思想界とか芸術界とかの変わったところの交友を持つように心がける。
自分を絶えず変化させる。弾力あらしめるように心がけられると、皆さんのおためになります。
なんでも真理は同じことであります。学問でもさようであります。漢学者は漢学の本ばかりを読んでいる。漢学者とばかり付き合っている。国学者は国学の書物ばかり読んで、同じ国学者とばかり付き合っている。英文学者は英文学者、ドイツ哲学者はドイツ哲学者とばかり、法律家は法律家、皆自分の専門、専門というところばかり立て籠もって、象牙の塔の暮らしをしておりますと、実に早く思想が駄目になる。頭がこわばってしまうのです。そこで、思想・学問の秘訣は努めて専門外の人たちと適度の交流をすることです。
「あれは俺の専門外であるから、あんなものは関係ない」などと考えるのは、これは一番浅薄な頭脳です。往々にして、いわゆる専門家というものは居眠っているのであります。ですから、専門外というものを、専門に結びつける。今までのような、分析、解剖anatomyではなく、綜合。専門と専門の交流、綜合というものが学問においても必要でありますが、それは我々の交友というものにおいてもやはり然りで、ケチな考えで、あいつは畠違いだ、というようなことを考えてはならないのであります。「専門外だ」ということを軽々に言ってはならないのであります。むしろ専門外こそ専門内で得ることのできないものを得られるのだ、というだけの心構えをお持ちになる方がよいと思います。 』
運命を創る: 人間学講話
安岡 正篤