こんな素晴らしい講義はもっと早くに出会いたかった。森先生がそこに立ってお話ししてるような錯覚に陥いる。
愛知県知多郡武豊町に父・端山(はしやま)俊太郎、母・はつの三男として生まれる。2歳で半田町(現・半田市岩滑地区)の森家に養子に出され、以来森姓となる[1]。
1920年(大正9年)、広島高等師範学校英語科に入学、福島政雄・西晋一郎に学ぶ。1923年(大正12年)、京都帝国大学文学部哲学科に入学し、主任教授西田幾多郎の教えを受け、卒業後は同大学大学院に籍を置きつつ天王寺師範学校(現:大阪教育大学)の専攻科講師となる。1939年(昭和14年)に旧満州の建国大学に赴任するが、敗戦後の1946年(昭和21年)に帰国、1947年(昭和22年)個人雑誌「開顕」を創刊、1953年(昭和28年)、神戸大学教育学部教授に就任。同大学退官後の1965年(昭和40年)には神戸海星女子学院大学教授に就任。1975年(昭和50年)「実践人の家」建設。
1992年(平成4年)11月21日、死去。96歳没。
半田市の「立腰(りつよう)教育」[編集]
半田市では森の死をきっかけに、竹内弘市長と市教委教育長が中心となり、1994年(平成6年)4月から半田市立宮池幼稚園、半田市立花園小学校、半田市立横川小学校、半田市立半田中学校の1園3校を研究指定校に、9つの小中学校で「立腰(りつよう)教育」が開始された[2]。この教育法は森が「常に腰骨をシャンと立てること、これ人間に性根の入る極秘伝なり」と説いたことに由来する。
同年6月13日、森は半田市名誉市民に推挙[3]。それから数年の間に立腰教育はすべての市立幼稚園、小学校、中学校で採用されることとなった。小学校では朝会に「立腰タイム」を設け、全校一斉に児童が正座や腰を伸ばす姿勢をとったり、瞑想を行ったりした。また、「腰骨を立てよう」という看板が市内各地に設置された[4]。
ところが1996年(平成8年)4月3日、森の思想信条を問題視した知多地方教職員労働組合が、「立腰教育を中止するよう指導する」ことを求める申し入れ書を竹内弘市長と市教委教育長に提出した。同組合は申し入れ書で「森氏は『わが国の亡国の兆しは女性の変質に始まり、それは男女共学制に起因している』と述べ、戦後民主主義教育の根幹である共学制を否定している」と前書きし、同年8月に予定されている森の顕彰大会の取りやめ、憲法・教育基本法の理念に反する立腰教育の中止を求めた[5]。7月8日には市民団体も立腰教育と大会の中止を求める申し入れ書を提出したが、市側はこれをはねのけ、8月9日から雁宿ホールで生誕百年記念全国大会を開催した[6]。