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『言葉の想の相剋する自己否定の修行よりも、本能の自然を肯定して、言葉の想を追い払い、天道様に従って、黙々自然の居士(能の「自然居士」じねんこし、ではない)となる事のほうがよほど困難である。なぜなら人間は言葉の呪縛によって人間であると信じているからだ。自然の居士も立派な修行の道となる。』
山本健造はまさに黙々自然の居士である。鋤鍬を扱いながら夕陽に照らされて六次元弁証法に導かれた。
「現象点には形の直ぐ見える物ばかりでなくて、心の喜怒哀楽の心理作用から、透視や念写、テレパシーの作用を起す超心理作用も、この現象点にあると見るのです。」山本健造 六次元弁証法 福来出版
ここにもリアリティを根本から変える思想が見られる。超心理作用スピリチュアルというものは奇行による鬼神解釈ではなく、未知の全体を受け入れるということである。
人間を支配する言葉の呪縛とは、第一に母語の呪縛である。日本語には一人称が多い。
- わたし
- 私
- 拙者
- 小生
- 自分
- 朕
- それがし
- わっち
- おいどん
- 俺っち
- おいら
- 手前
- 我輩
- 余
- 僕
- ボク
- 身ども
- ウチ
- わちき
- わだす
- 当方
- 麿
- 我
- わらわ
- 俺様
- 俺
- オレ
- わし
- おら
- あっし
- こちとら
これは半分は歴史の産物であるが、半分は今も再生産して心を塞ぐ呪縛である。
同じ文章で
私はまだ若い。
俺はまだ若い。
あたいはまだ若い。
わたくしはまだ若い。
ワイはまだ若い。
アッシはまだ若い。
拙者はまだ若い。
手前はまだ若い。
それぞれ景色が違う。この景色の違いが歴史であり文化である。同時にこれらは呪縛である。主語を選んだ瞬間に文化を選んでいる。これを克服するには一人称をできるだけ避けるということが選ばれている。故に日本語には主語のないテキストが多い。