人生は映画じゃない。人生にはBGMはない。ただ自分のことで目一杯な時もあれば愛する人が心配でならない時もある。そんなシーンに音楽など付けれるくらいならもっと頑張っていたはずだ。
人生は映画じゃない。映画より退屈。
たとえ退屈でも映画のようにその場から出てゆけない。
人生には映画のような主演も見通しもない。
しかし人には第二の耳がある。歳をとるにつれて聞こえてくる声がある。それは自分自身の魂が発する声のリフレーンだ。
歳をとるにつれて、ああどこかで見たなという一瞬が多くなる。
この人前は悪役だったな。ということもある。
相変わらず自分がなんの役かわからないが、経験からして劇的なことは起こらない。順当な成り行きしかない。
他人の役柄などわかるものではない。
そこで思うのだ。人生は映画じゃない。実時間は映画にならない、だが映画にしてみたいと思うのだ。
ここに時間が『ある』というのは、時間に変換できるということに過ぎない。
人生の厚みというのは変換された時間のことではなくこの変換の多様性である。
人間同士の場合、関係の数だけ変換できる時間が『ある』『あった』と言えるのかもしれない。