公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

書評 『江戸=東京の下町から 生きられた記憶への旅』 川田順造

2016-03-02 08:48:23 | 今読んでる本
天皇家も酷いことするよね。大正天皇の生母なんだよ

『柳原家は前光の死後、息子の義光が家督を継ぐものの、金銭問題や愛人問題を次々と起こして醜聞まみれとなり、さらには白蓮(燁子)も、九州の炭鉱王に嫁いだ後に、若い社会主義者の愛人と駆け落ちするといった大スキャンダルを巻き起こす。  柳原家の甥や姪が立て続けに新聞沙汰となる事件を起こし、愛子は宮中でずいぶんと肩身の狭い思いをしたようだ。明宮嘉仁親王(大正天皇)の心身の不具合も、愛子の血統のせいではないかと陰で批判されたものらしい。  愛子の産んだ皇太子は病弱ではあったものの無事に成人して天皇となり、九条節子との結婚も果たす。次々と節子皇后との間に男児を四人、授かることもできた。  とはいえ、病弱な体質を根本から克服することは難しく、天皇となってからの心労もたたってか、大正十五(一九二六)年に四十七歳で崩御。実の子どもに愛子は先立たれたのだった。  紛れもなく、彼女は皇統をつないだ最大の功労者である。大正天皇の母であり、昭和天皇の祖母なのだ。彼女が皇子を産まなければ、天皇家の歴史はどうなっていたことだろう。だが、その一生は、どこまでも日陰の女性のものである。晩年は他の女官同様、皇居から辞して老後を過ごし、昭和十八(一九四三)年に八十八歳の生涯を閉じた。  明治天皇と皇后は巨大な武蔵野御陵に眠る。だが、愛子は皇族専用の豊島岡墓地にさえ葬られてはいない。東京都目黒区にある祐天寺に、その墓はある。現天皇の高祖母である。』 石井妙子作 近代おんな列伝 より

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江戸=東京という結びが気になるが、これは異なるものに同一の匂いを感じてほしいという著者の主張であろう。『生きられた』というのも一つの世代感をまとめているので日本語としてはちょっと変だが、これも主張である。まえから小名木川と江戸、府内というか日本橋神田界隈のお膝元との関係が気になっていたが、町火消組織ができるころに、一体化が図られるまでは、文化的には異なる地域性が伝法肌とか鯔背など木場を中心としたリアルアイドルや伝説のヒーローが生まれてくるのもこの深川界隈になる。江戸に上るときに舟運を使うと真っ先に地に足をつけるところが深川や小名木川というところだ。今暮らしている人々とは程遠い江戸と今との間に、震災と空襲という二度の災禍があることが、ものとして残る江戸深川や下町の証拠をほとんど消し去ったが、消せないのは文化や芝居、歌舞伎や講談にある過去の精神、人形浄瑠璃や謡の中に連続する江戸以前の精神と江戸以降の空っぽになった武士社会を埋めた庶民の熱狂と矜持。この辺りを味わってもらいたい。

ちなみに下町の西の端はどこかといえば、江戸時代後期には、外神田(筋違橋外新地~柳原河岸)と小川町の境くらいが武士文化の領域と別れるところらしい。たまたま今会社のある場所だが、真南が将門の首塚になっている特別な気の集まるところにある。

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