公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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「日清戦争の義」内村鑑三

2016-03-02 12:08:32 | 日本人
『人類が地球面上に正義を立てる目的をもって戦場に赴いた時代は、はや既に過ぎ去ったようである。この物質的時代の人は、戦争がことごとく欲の戦争であることを承認すると同時に、戦争の避けられないのを知っているが故に、ついに欲をもって戦争の正当な唯一の理由であると信じ、欲によらない戦争ということは、全く彼らの思惟にのぼらないようになった。

「義のための戦争」とは、今時代の人にとっては、ピューリタン時代の旧習古俗とひとしく全く廃止され、人は義戦を口にしてこれを信じる者がなくなるに至った。故に我々の手に取った目下の戦争を評するのに同一の精神をもって行い、我々の朝鮮占領をもって我々の邪念から出たものとし、我々が放漫無礼な我々の隣国と干戈を交えるに至ったのを見て、我々が野心からやったことだと言う者があるのは、決して怪しむにたりない。

しかし、歴史上義戦のあったことは、誰も疑うことはできないところである。かのギデオンがミデアン人を迎え、「神と彼との剣」をもって敵軍の12万人をヨルダン河辺に殺戮したのは義戦である。(略)
もし戦争の多くは欲から来たものとしても、すべての戦争は欲の戦争ではない。利欲をもって戦争唯一の理由とみなして、神聖な人類性の価値を下落させてはいけない。

我々は信じる、日清戦争は我々にとっては実に義戦であると。
その義であるというのは法律的にのみ義であるというのではなく、倫理的にまたしかり、このような戦争は、我々の知らない戦争ではない。我々固有の教義にのっとるもので、我々の縷々戦った所である。

キリスト教国は既に義戦を忘却する今日にあたって、非キリスト教国である日本がこれに従事するのを怪しむ者もあろう。しかし非キリスト教国がもし無知であれば彼らはまだ誠実である。キリスト教国がその迷信と同時に忘却した熱心は、我々はまだ捨てていない。
我々に一種の義侠あり、死を知らないギリシアの豪強をくじいたローマの勇は、今なお我々が持っている。西洋がすでにその熱心時代を過ぎたとしても、東洋はまだその中にあり、我々はまだ義戦を忘却していない。

今回の衝突は我々が自ら好んで引き起こしたものではないことは、我が国近来の状況を知る者は、十分に承認するであろう。戦争を非常に嫌う内閣が我々を先導している。それに加えて内治の改革はまさにその緒につくところであり、隆盛の極に達しようとしている。もし利欲が我々の最大目的であるならば、戦争は我々の最も避けるべきもの、非戦争こそ我々の最終最始の政略であるべきである。』


明治27年 『国民之友』8月23日所載の英文らしいが、後に日露戦争では非戦を主張する内村鑑三も日清戦争宣戦布告8月1日から三週間ほどの時点では戦争を支持している。
其の根拠が義戦、今風に言えばジハードである。「欲に依ららない戦争」が東洋にはある。と、信じていた。明治27年、1894年の日本はそういう熱意が國に充満していた。西南戦争から十八年しか経っていない。どういう時代だったのだろう。
内閣総理大臣は伊藤博文公(明治25年8月8日~明治29年8月31日)杉山茂丸は香港で金融ビジネスを学んで帰国していたかもしれない。明治29年には広岡浅子が『女子教育論』を手渡され、新世代が活躍の場を探し始めていた時代。
国内は維新も士族の叛乱も生まれる前の出来事となった世代が若者となり、伊藤博文公も薩長藩閥の宿痾の象徴で過去の人になりつつあった。
ヨーロッパ大陸では露仏同盟が仏国の資本をシベリア鉄道に投下され、世界は呉越同舟しながらドイツ包囲網を形成していたとともに、英仏の植民地争いが始まっていた。太平洋は米国がハワイを独立させて簒奪し、ロシアにとっては英国の邪魔で唯一南下できそうな地域が、極東ボストークだった。版図を侵すのに義など欠片もない国際情勢だった。


今別の本を読んでいるが、露西亞の関心を東に向けるためドイツが仕組んだ日露の衝突。
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