『日本の朝鮮半島統治下の1919年に、中国上海で独立運動家らによる「大韓民国臨時政府」が設立されてから11日で100年となる』この政府は現行の大韓民国の現行憲法の前文に「大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統」と「4・19民主理念」を継承すると書かれ、大韓民国臨時政府を現・大韓民国の前身と位置づけている。しかしこの臨時政府は国際的に承認されることはなかった。なぜなら実態として連合国のメンバーである行動を証明できなかったからだろう。韓国政府は、2018年4月13日の臨時政府樹立99周年記念式典において、現在4月13日とされている臨時政府樹立日を、国号と臨時憲章を制定し内閣を構成した4月11日に変更することを明らかにした。法改正を経て、100周年となる2019年より変更される予定である。実態と実力のない者たちが亡命していたという事実しかないのに、紙に書いて、しかも仮憲法は英語で書いて政府成立と、あと知恵で思いついたようだ。臨時政府の樹立を宣言したとの4月13日史料があったはずなのに、これまでの99年間の主張の根拠はどうなったのか?結局宣言はしていないのだ。臨時憲章の公布や国務員選出に基づいて11日と主張しているが、上海で公布するといっても誰ばどのように選出することが可能なのか?同胞の北朝鮮からも「大衆的基盤がなく、誰からも承認されなかった政府」と言われているが、実態も統治能力もなかったということが明らかだったのは終戦直後の米国の動きでわかる。満州・中国で日本軍と独自の戦闘を行ったと誇大に表現しているが実際には1920年の1年しか軍族の小競り合いに参加していない。「光復軍」は形式上中国軍の参謀総長統制下にあった、これが「光復軍」の事実である。拠点も上海か重慶か曖昧である(ロシア領の国民議会は大統領 制を、上海の大韓民国臨時政府は議院内閣制を、漢城政府は執政官総裁制 を考えていた、少なくとも4つの運動があった、上海フランス租界で設立された大韓民国臨時政府、漢城に成立した漢城政府のほか、地下組織が設立を計画した朝鮮民国臨時政府 の案や新韓民国政府、ロシア領内の団体)。これでは統一政府とは言えない。統一過程も明らかにできない。歴史的にあるのはウィルソンの民族自決宣言に煽られて旗揚げしたということだけ。政府ではない。慰安婦の強制と性奴隷と同じ世界に嘘を流布する韓国と中共の犯罪である。韓国はどうしてもド・ゴールのように戦後の臨時政府の地位=連合軍戦勝国の地位を得たいと思った(今も常任理事国になるべきと考えている)ことから逆算した歴史の捏造がこの犯罪の動機である。その証拠が4月13日から4月11日への変更という修正(99年間の嘘に対する嘘の上塗り「《金正明編『朝鮮独立運動II―民族主義運動篇―」によれば、1919 年 4月 10 日に李承晩・安昌浩・金奎植・崔在亨・李東輝により「朝鮮共和国 仮政府組織の布告」および「朝鮮共和国仮憲法」が出さ)》れた」という事実に露呈している。
李 東輝(イ・ドンフィ、1873年6月20日 - 1935年1月31日)は朝鮮の独立運動家・社会主義者。号は誠斎。
咸鏡道端川に生まれる。武官学校を出て安昌浩の啓蒙思想に感化、新民会、西北学会などに参加した。若年より開化運動に取り組み、名声を得る。鎮衛隊水原歩兵大隊隷下の江華分遣隊長[1]であった1907年8月9日、日本により韓国軍解散命令が出されると、これに反発した部下の延基羽副校・池弘允副校・劉明奎参校らが蜂起する[2]。李は直接参加してはいなかったものの、以前より反日集会を開いていたため逮捕された。1911年の105人事件にも関与し、その後満州、シベリアへと亡命する。朝鮮独立運動の指導者として活動するも、ウラジオストクにて住民煽動の罪により投獄された。
ロシア革命で恩赦を受け、共産主義思想に共鳴すると労農ロシアとの連帯を掲げてハバロフスクで韓人社会党を組織した。韓人社会党はその後上海へ拠点を移し、1921年に高麗共産党となっている。1919年の三・一独立運動後は大韓民国臨時政府に参加し、初代軍務総長、上海での合同時では初代国務総理、副大統領などの要職を歴任した。1922年コミンテルンがワシントン軍縮会議に対抗して開催した極東諸民族大会に朝鮮代表の一人として出席するなど、労農ロシアと上海臨時政府をつなぐパイプ役として外交の辣腕を振るっていたがソ連からの独立援助資金をめぐる保守派との対立過程において引責辞任を余儀なくされる。上海臨時政府との関わりを絶った後はシベリア在住朝鮮人社会の長老的存在として、民族集団をまとめあげた。
1906年に李範允は自分についてくる人々を導いてロシア領へ亡命した。 この地域に移民していた崔在亨の助けで義兵部隊(연추義兵部隊)が組織され、ロシア製武器で武装した。義兵支援のための동의회(総長崔在亨)と倡義会を結成して、연추義兵部隊総督に就任した。
李 範允(朝鮮語: イ・ボムユン、1863年12月29日 - 1940年10月20日)は、朝鮮の独立活動家。本貫は全州李氏。
京畿道高陽郡出身。朝鮮王朝末期、間島問題で清との争いの末に辺界警務署が設置された後、1902年に間島視察に任命されるまでの経歴は不明である。
間島に派遣され、翌年には間島管理士に任命されて、間島地域の朝鮮人に対する行政業務に従事した。この地域の砲手で自衛的性格の軍隊射砲隊を組織し、後の間島地域義兵運動の一基盤になった。
間島管理士在職中の1904年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍と連携して咸鏡北道地域で日本軍と交戦した。日露戦争が日本の勝利に終わると、1906年に李範允は自分についてくる人々を導いてロシア領へ亡命した。
この地域に移民していた崔在亨の助けで義兵部隊(연추義兵部隊)が組織され、ロシア製武器で武装した。義兵支援のための동의회(総長崔在亨)と倡義会を結成して、연추義兵部隊総督に就任した。安重根と厳義燮などが参加した연추義兵部隊はロシア領にとどまりながら、何度か国内に進入して多くの戦果を挙げた。
1909年の安重根による伊藤博文の暗殺以後、大韓民国臨時政府の十三道義軍に参加した。義兵長出身者が中心になった十三道義軍には、安昌浩と李甲など啓蒙運動家も参加して、連合組織の性格を帯びた。李範允が倡義軍総裁を引き受け、十三道義軍と日韓併合条約無効を主張する声明会はロシア政府によって解体された。李範允はロシア当局に逮捕され、7ヶ月間獄中生活をした。
1911年に沿海地方に帰り、洪範図・李相卨などこの地域の独立活動家と勧業会を組織して数日後から総裁を引き受け、『권업新聞』も発行した。義軍府と大韓独立軍団の総裁、臣民府の参院院長に推戴されるなど、北間島と沿海州地域武装独立運動を進め、1940年に京城府で病死した。
1962年に建国勲章大統領章が追贈された。
金 奎植(キム・ギュシク、 1881年1月29日 - 1950年12月10日)は、大韓民国の政治家、教育者、独立運動家。1919年4月に大韓民国臨時政府の外務総長、8月に欧米委員部委員長、1921年に学務部大臣、1933年に学務大臣、1934年に国務委員を歴任。
1940年10月 - 1947年3月3日 大韓民国臨時政府の副大統領、号は尤史(ウサ/우사)·竹笛(チュクチョク /죽적)が最もよく知られている。
安 昌浩(アン・チャンホ、1878年11月9日 - 1938年3月10日)は、朝鮮の朝鮮独立運動家。号は「島山」
朝鮮平安南道に生まれ、イギリス人牧師ホレイス・グラント・アンダーウッドの救世学堂で学ぶ。キリスト教徒。
大韓帝国における愛国啓蒙運動に従事したあと渡米したが、1905年に日韓保護条約が締結されたことを知り帰国した。1907年、新民会を組織して、各地での講演会や大韓毎日申報を通した啓蒙活動や、大成学校・五山学校設立等の教育事業、磁器製造株式会社設立等の実業活動、中国での独立軍基地建設事業などの運動を展開したが、日韓併合の直前に亡命。新民会も1911年に百五人事件に関わったことで壊滅させられた[1]。
中国経由で再びアメリカに亡命し、興士団(フンサダン、흥사단)を組織した。1919年には亡命朝鮮人によって中華民国上海で設立された大韓民国臨時政府に参加し内務総長を務め、朝鮮独立運動を行う。しかし、地域派閥や党派の争いが絶えず、畿湖(京畿道と忠清道)出身でも両班でもなかったため、臨時政府内の主流とはなれず、彼の意見に耳を傾けるものはほとんどおらず、1921年に内務総長を辞任した。
その後は満州に渡り、独立運動の根拠地としての理想村を計画したが、1931年に満州事変が勃発したことにより頓挫。さらに、上海事変で日中間が軍事衝突をしていた1932年4月29日に、上海の虹口公園で尹奉吉が起こした上海天長節爆弾事件に関与したという嫌疑[注釈 1]で日本軍に逮捕され、朝鮮へ連行されたうえで懲役4年の実刑を宣告され服役していた。1935年に仮釈放となり隠居した。しかし1937年6月に発生した修養同友会事件で逮捕され、収監中に病状が悪化し釈放されるも、肝硬変により京城帝国大学付属病院で死亡した。