上巻に続く続編を探していた。やっと古本で下巻を見つけた。
100年前の1858年に自分が生まれていたら、7~8歳年下が茂丸だったことになる。自分は彼と同じようなことをしただろうか?あるいは星一ほどの勇気があっただろうか?
明治二十三年(1890年)から杉山茂丸の方向は大きく変わる。香港で二年学んだことは銀行法である。ますます国士道楽はスケールが大きくなってゆく。
帰国後家督を夢野久作こと泰道に譲っている。
今の世代にはわからないが家督を譲るとは、その家の人間を引退したこと、死んだことと同じだった。死ぬ気で国事を行ったそれは確かなことだろう。
さて其れまでの杉山と其の後の杉山だが、国事が小さなことに見え始める。帰国後1890年以降の世界の激動に自らすすんで連動してゆく。1890年~1920年ここの30年間は世界史的転換点、二十世紀以降の世界の誕生である。転換点にあって、ものごとの大きさがスットわかった杉山はセンスが良いのだ。
あるときには、杉山は児玉源太郎を通じて明石元二郎をヨーロッパに送り込み、レーニンの帰国(封印列車)を支援している。其ればかりでなく、日清戦争直後には、ロシアとの戦争を前提に伊藤博文に台湾領有を提案している。さらに1911年までに政治の背後で運動し、米国との戦争を前提とした骨抜き(敵として、米国除外の攻守同盟)日英同盟の改定(第三次改定)を飲ませている。
ここが歴史の舞台となる。杉山茂丸は最初こそは愛国者であったが1890年以降回転して最後は国際主義に染まったアングロ・アメリカの手先というのが私の杉山茂丸評価だ。
「凱旋紀念として茶の湯釜二個御贈与被下御芳志忝く存じ候。此釜は出来格恰とも宜敷不断は拙者座右に据置長く愛玩可致候得共若し無法の悪戯を為すか嘘八百を吐く不埒者有之候時は釜煎りの刑に処するときの用に供すやも図られず候に付此儀御含み置き相成度云々」
私が見た杉山茂丸は、退屈浪人。↑悪戯者。その当時のアングロフレンチあるいはアングロアメリカの世界戦略の絵の中に矛盾しない東洋の偉大な点景が杉山茂丸である。其れもただの点景ではない。日本国がそこを中心にぐるぐる旋回しているという意味で、避けがたい歴史の必然舞台に現れた名優と思う。
杉山茂丸は何一つ所属する事のない自助と「独立の」人物であった。もちろん玄洋社の社員ではなかった。こんな面白い人物をドラマにしないというのはどういうことだろう。法螺と真実の境目がわからないためか?
興味深いのは、茂丸のシナの評価である。
曰く「支那は永久に滅びざる強国である。日本は支那の行為によりては、直ぐ目前に滅びる弱国である。」
真意は李鴻章の残した清親露条約である。秘密条約と言われていたが、ロシアとの密約を杉山は知っていた。超一級の情報にアクセスできていた。ここも驚きである。
杉山茂丸最後の言葉は、
「わしの死んだあとは知らんぞ。」
昭和十年であった。七十三歳。
事実、杉山死去の2年前のことである、昭和八年 国際連盟による満州国の不承認を受けて、伊藤巳代治枢密院参事は「2月9日にこれを知るや、10日には政友会の望月圭介、11日には国家主義者の杉山茂丸(作家夢野久作の父)、12日には政友会代議士の西岡竹次郎、13日には東京日日新聞社副社長の岡実(政治学者岡義武の父)、実業家の山下亀三郎、14日には政友会の岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)に外交の失敗を痛罵し、潜水艦の急造など軍備の拡張を主張している。伊東は満洲国の承認そのものに反対していたのではなく、日本の国際的孤立がもたらす軍事的危機を憂慮していたのである。
ここまでは政府の外交失策への批判だったが、14日に来訪した貴族院議員の石塚英蔵に牧野伸顕内大臣に対して「一朝の怒に乗して聯盟を脱するの不可なる所以」を忠告せよと依頼したあたりから国連脱退反対運動が本格化する。同じ日には来訪した外交官の吉田茂に「英国に頼りて一箇年の猶予を求むへきこと」を内田外相に伝えよと求めている。」そのくらい杉山茂丸は日本国の外交に関与していた。