公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

切り取りダイジェスト 2022/04/02  トポス 文学 自己分裂の自己弥縫としての作品

2022-04-02 06:40:00 | 知識を消費するということ

四年ほど前に文学のトポロジーという奥野建男*氏の未完の考察に出会い、以下のように既にデフォルトとなった現代人の自己分裂を考えた。

外では分裂する自己に不満足でも家という場所に帰り着きさえすれば、自分を取り戻したような気になる。誰もがそういう場所を持っている。文学的創作の秘密はトポス(トポス: τόπος)は語源としてはギリシア語で「場所」を意味する。)にある。

この意見は世間の小説見解とは違うので注意。

家を出るために朝髭を剃るのも化粧をするのもトポスを変える自己分裂の儀式である。小説は失われたトポスの比較的古いタイプの埋め合わせである。トポスを変えることほど不快なことはない。故に現代の若者は「働いたら負け」と豪語して引きこもる。

現代人はもはや小説文学でトポスの変換に没入し埋め合わせをするほど暇ではない、電車の中でスマホゲームに没入してもっと単純に、あるいは薬物で埋め合わせしている。

SNSへの没入はほとんど他人の見解への乗り移りによる埋め合わせと自分のポトス画像確認だらけでメディアとしては見るに堪えないが、たまに光る見解や事実を見つける同好の者を見つける楽しみがある。あるいは逆にそこに没入可能なミーム**(複製可能な情報)を見出して直反射して群がるのもまた自己分裂の埋め合わせ行為である。

それら全ては剥き出しの文学と見るというのが私の見解。文学とはこのように誰もが持っているトポス、その変換、置き換え、その人とその人の及ぶ範囲への写像、場所的関係の捨て場、抜け殻である。小説文学は人間社会の自己関係したがって現代においては自己分裂の埋め合わせ化石である。

 


自分を点として◇の図形の真ん中付近に置いてみると、どのように左右が伸びようとも自己像は変形されても本質的包摂関係は変わらないというのがトポロジーである。
難しいことではないが、変わらないことが難しいのが生身の人間というものだ。
 
試しに◇の左半分を切り捨てても同じ自分であるが、果たして切り捨てられた左半分の中に自分の点は含まれていないという確信があったかどうか後になって後悔することがほとんどではないだろうか。恋愛などはわかりやすい例だろう。学問においても仮説を捨てるということは同じく苦しいことである。しかし苦しいと感じる人間はまだまともである。現代人は自己分裂に気づかないふりをして不本意な会社勤めや役人や政治家をやっている。だから自分のトポスを捨てたことに無感覚でいられるのだ。
It's been a hard day’s night,
and I’d been working
like a dog
It’s been a hard day’s night,
I should be sleeping
like a log
But when I get home to you
I find the things that you do
Will make me feel alright
A Hard Day's Nightもトポスと自己分裂に対する順応を歌っている。実に単純なことだが、明解な真理がメッセージソングとなっているのである。
 
物理的な境界線がトポスと自分の関係を決めることもあるし、信仰と非信仰の境界線がトポスと自分の関係を決めることもある。人間はそのようなトポロジーとして関係の数を増やしながら生きている。逆説的には生きる手段として、時には目的に倒錯したトポロジーつまりは《乗り移り》の居場所がある。より主体的積極的関係によって規定されるトポスは自分の意思や動機の関数であり、モナド論の論理空間上の基礎構造でもある。
 
文学とはこのように誰もが持っているトポス、その人とその人の及ぶ範囲との写像、場所的関係の捨て場、抜け殻である。文学は自己関係と自己分裂の化石である。以下長谷川泰子の語る文学者たち自身も自己分裂の埋め合わせに都合のいい女として没入していったのだと思えば、作家自身の作品創造の度に矛盾を深める存在が見えてくる。

新しい女 と言われても、何のことやらと思うかもしれないが、家庭から羽がついたように「フラッパー (flapper)ルイーズ・ブルックスなどがアイコン」浮遊した女性は、19世紀新しい女と呼ばれ当時はとんでもなく異質だった。

本人も托鉢と表現しているが、根無し草のように子連れで知人の家を転がる若き日の生活は詳細に描かれている。しかし、中原にあまり関係のない時期を飛び越えて急に55歳になる。どう回顧するか本人の自由ですが唐突、泰子は中也の予言通り宗教にはまり人生の後半を迎える。
泰子の評価。中原中也は田舎っぺで、小林秀雄は優しい都会人。女から見ると”その場のない”男はそのようにしか見えないのかと、読んでいて中也が気の毒というか嫌になるが、中也の本当の心の友は小林秀雄だけだったのかもしれず、小林が中也に「あいかわらずの千里眼」と交わしただけでわかりあえたことに比べれば、泰子のいつまでも亭主気取りの中也という扱いは、あまりに表面的で、この時代の新しい女は野良猫のように世間を泳ぎ渡ることにこだわりがない。中坪に中原中也賞を創設してもらってもそれだけのことに思える。

まるで中也の残した仕舞いどころのない古着を懐かしむように、詩が引用されている。泰子の宝物であることには変わりはないのだ。

補足 泰子=長谷川 泰子(はせがわ やすこ、1904年5月13日 - 1993年4月11日)は、日本の女優。戦前の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残す。中原中也、小林秀雄 (批評家)との三角関係で知られる。グレタ・ガルボに似た女と言われた。長谷川 泰子の中では小林秀雄が一番性的に相性が良かったらしい。

少し引用する
『「普通、無邪気っていうのはただの無邪気で終わるんだろうが、お前の無邪気は罪だよ。」中原はいつでも旦那気取りでいたもんだから、私がだれにでも同じ態度で接するのを、こういってました。』

 

**ABOUT MEMEs

The term meme (it’s pronounced like dream or cream) was coined by Richard Dawkins, Professor of the Public Understanding of Science at Oxford University, in his 1976 book The Selfish Gene. As examples he suggested “tunes, ideas, catch-phrases, clothes fashions, ways of making pots or of building arches”.

Memes are habits, skills, songs, stories, or any other kind of information that is copied from person to person. Memes, like genes, are replicators. That is, they are information that is copied with variation and selection. Because only some of the variants survive, memes (and hence human cultures) evolve. Memes are copied by imitation, teaching and other methods, and they compete for space in our memories and for the chance to be copied again. Large groups of memes that are copied and passed on together are called co-adapted meme complexes, or memeplexes.

The word “meme” has recently been included in the Oxford English Dictionary where it is defined as follows  “meme (mi:m), n. Biol. (shortened from mimeme … that which is imitated, after GENE n.) “An element of a culture that may be considered to be passed on by non-genetic means, esp. imitation”.

According to memetics, our minds and cultures are designed by natural selection acting on memes, just as organisms are designed by natural selection acting on genes. A central question for memetics is therefore ‘why has this meme survived?’. Some succeed because they are genuinely useful to us, while others use a variety of tricks to get themselves copied. From the point of view of the “selfish memes” all that matters is replication, regardless of the effect on either us or our genes.

Some memes are almost entirely exploitative, or viral, in nature, including chain letters and e-mail viruses. These consist of a “copy-me” instruction backed up with threats and promises. Religions have a similar structure and this is why Dawkins refers to them as ‘viruses of the mind’. Many religions threaten hell and damnation, promise heaven or salvation, and insist that their followers pass on their beliefs to others. This ensures the survival of the memeplex. Other viral memes include alternative therapies that don’t work, and new age fads and cults. Relatively harmless memes include children’s games, urban legends and popular songs, all of which can spread like infections.

At the other end of the spectrum memes survive because of their value to us. The most valuable of memeplexes include all of the arts and sports, transport and communications systems, political and monetary systems, literature and science.

Memetics has been used to provide new explanations of human evolution, including theories of altruism, the origins of language and consciousness, and the evolution of the large human brain. The Internet can be seen as a vast realm of memes, growing rapidly by the process of memetic evolution and not under human control.

The field of memetics is still a new and controversial science, with many critics, and many difficulties to be resolved.

ミーム(meme:dreamやcreamと同じ発音)という言葉は、オックスフォード大学の科学一般理解教授であるリチャード・ドーキンスが1976年に出版した『利己的な遺伝子』の中で作った造語である。その例として、彼は「曲、アイデア、キャッチフレーズ、服の流行、鍋の作り方、アーチの作り方」を挙げている。
ミームとは、人から人へコピーされる習慣、技術、歌、物語、その他あらゆる種類の情報のことである。ミームは、遺伝子と同様に、複製を行うものである。つまり、バリエーションと淘汰を伴ってコピーされる情報である。一部の変種だけが生き残るので、ミーム(ひいては人間の文化)は進化する。ミームは、模倣、教育、その他の方法によってコピーされ、私たちの記憶の中でスペースを奪い合い、再びコピーされる機会を狙っている。一緒にコピーされ、受け継がれるミームの大きなグループは、共適応ミーム複合体(ミームプレックス)と呼ばれる。
ミーム」という言葉は、最近、オックスフォード英語辞典に収録され、次のように定義されている。 "meme (mi:m), n. Biol. (mimeme ... that is imitated, after GENE n.) "An element of a culture that may be considered to be passed on by non-genetic means, esp. 模倣".
ミーム論によれば、生物が遺伝子に作用する自然淘汰によってデザインされるように、我々の心や文化もミームに作用する自然淘汰によってデザインされる。したがって、ミーム学の中心的な問いは、「なぜこのミームが生き残ったのか」ということである。純粋に私たちの役に立つから成功したものもあれば、様々なトリックを使ってコピーされるようになったものもある。利己的なミーム」の観点からは、我々や我々の遺伝子に及ぼす影響に関係なく、複製されることだけが重要である。
ミームの中には、チェーンメールや電子メールウイルスなど、ほとんど搾取的な、つまりウイルス的な性質を持つものもある。これらは、脅迫や約束に裏打ちされた「コピー・ミー」の指示で構成されている。宗教も同じような構造を持っており、ドーキンスが宗教を「心のウイルス」と呼ぶのはこのためである。多くの宗教は、地獄や天罰を脅し、天国や救いを約束し、信者がその信仰を他の人に伝えるよう主張する。これによって、ミームプレックスの生存が保証されるのである。その他にも、効果のない代替療法や、ニューエイジの流行やカルトもミームとなる。比較的無害なミームとしては、子供向けのゲーム、都市伝説、流行歌などがあるが、これらはすべて、感染症のように広がっていく可能性がある。
一方、ミームが生き残るのは、私たちにとって価値があるからである。最も価値のあるミームは、芸術やスポーツ、交通や通信システム、政治や金融のシステム、文学や科学など、あらゆるものに含まれている。
ミーム論は、利他主義の理論、言語と意識の起源、人間の大脳の進化など、人類の進化に関する新しい説明のために使われてきた。インターネットはミームの広大な領域と見ることができ、ミームの進化の過程によって急速に成長し、人間のコントロール下にはない。
ミーム論の分野はまだ新しい科学であり、批判も多く、解決すべき困難も多い。
 

*奥野 健男(おくの たけお)

文芸評論家
1926年(大正15年)~1997年(平成9年)

1926年(大正15年)、東京都渋谷区に生まれる。東京府青山師範附属小学校を経て、麻布中学校に進学。在学中、小山誠太郎に感化され自然科学、就く天文学、有機化学に興味を抱く。同時期、吉本隆明と出会い、吉行淳之介や北杜夫を知る一方、伊藤整の影響を受ける。1947年(昭和22年)、東京工業大学附属工業専門部化学工業科を卒業。その後、東工大化学専攻(旧制)に進み、遠山啓に科学全般を、岩倉義男に高分子化学を学ぶ。在学中の1952年(昭和27年)に『大岡山文学』に『太宰治論』を発表。フロイトやミンコフスキーを武器とした太宰の深層心理の分析が冴え、 マルクス主義運動から転向した倫理的自責に苦悩する内面をみずみずしい感受性によって描き、本格的な太宰論として多くの読者を得た。大地主の子に生まれ無頼に生きた太宰の姿に共感した評論は、後に文庫化され、評論では異例のロングセラーとなり、批評家の道を確立した。1953年(昭和28年)、東工大化学専攻を卒業し、東京芝浦電気に入社。中央研究所に勤務し、印刷回路積層板の研究からトランジスタの開発に取り組む。1954年(昭和29年)、服部達らと『現代評論』を創刊。1958年(昭和33年)、吉本隆明、井上光晴らと「現代批評」を創刊。一方、技術者としては、1959年(昭和34年)に「プリント配線用銅貼積層板の研究とその実施」で大河内記念技術賞を受賞。1961年(昭和36年)に東芝を退社したが、1963年(昭和38年)に「銅被覆積層板の製造方法」で科学技術庁長官奨励賞、1964年(昭和39年)に特許庁長官賞受賞を受賞する。東芝退社後は、 左翼文学批判の評論や、太宰と同じ無頼派の作家の「坂口安吾」論などを発表。 現代と大正・昭和の作家論はおびただしい数に上る。また、1961年(昭和36年)に多摩美術大学、日本大学芸術学部の講師を務め、1962年(昭和37年)には多摩美術大学助教授に就任。1970年(昭和45年)には教授となる。多摩美大では当初自然科学の講座を担当していたが、やがて『太宰治論』により文芸評論家として遇されていたため文学の講座に集中する。多摩美術大学の教員としては、広い視点から宇宙的な自然科学、そして芸術文学の本質を少しでも学生に植え付けようと30余年に渡り尽力した。1960年代前半には「政治と文学」というプロレタリア文学以来の観念を厳しく批判し、民主主義文学を否定したことで、文学論争の主役となった。1963年(昭和38年)に発表した「“政治と文学”理論の破産」は、新日本文学会と吉本隆明の間に大論争をひき起こした。1972年(昭和47年)、作家とその生まれ育った風土との関係に注目した「文学における原風景」を発表。のちの文学的都市論の原形となった。1976年(昭和51年)、「産経新聞」の文芸時評を担当。文学における「原風景」という概念を打ち出した。1984年(昭和59年)、「“間”の構造」で平林たい子文学賞を受賞。1991年(平成3年)に多摩美術大学の理事に就任。1993年(平成5年)、「三島由紀夫伝説」で親交のあった三島由紀夫の文学を論じ、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。1995年(平成7年)、紫綬褒章を受章。1997年(平成9年)、多摩美術大学を退職。同大学名誉教授となったが、11月26日に肝不全のため死去。享年71。 没後、勲四等旭日小綬章を追贈された。


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