日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
おなじみ憲法9条だが、じっくり見ると前項は威嚇や武力といった国権の発動を、国際的紛争において手段として放棄する。として、第二項では放棄するために戦力を保持しない。放棄するために戦力を持たず交戦権を認めない。と要約できる。
国語として堂々巡りになっている。放棄するためにではなく、放棄した結果、戦力を持たず交戦権を認めない。だろう。永久に放棄という極度定義文言にも問題があるが、まず整理が必要だ。
「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」これが目的だろう。
【日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動として国民国家防衛の交戦権を持つ。
日本国民は国際紛争において、武力及び威嚇等の防衛的交戦権を濫用した紛争の解決及び調停を前項の精神に反するものとし、その実現のために自国の国権発動たる武力は防衛的範囲で行使する。】
これが一番合理的な改正だろう。ただしオレ流。
安倍晋三首相は「7割の憲法学者が自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考え方もある」と発言しただけで、抗議したくなる九条屋は置いてゆきます。どうして北朝鮮の弾道ミサイルがデモされた直後の、今日、自衛隊無しで版図を護ることができるのか、対案武力のない九条屋は永久平和の夢想の中だけで寝言を言って実現したと信じている(寝小便たれ小僧と変わらない)夢想現実化症候群。
野村克也著『野村ノート』(野村/克也著 小学館)には、「心が変われば態度が変わる 態度が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる 運命が変われば人生が変わる」という言葉が、ヒンズー教の教えとして記述されている(p13~14)らしい。だから
「心が変われば態度が変わる 態度が変われば行動が変わる 行動が変われば法律が変わる 法律が変われば国是が変わる 国是が変われば憲法が変わる 憲法が変われば世界が変わる」
とこう心から柔軟にいきたいものです。人間社会の生産性は人口と、種族集団性、知的有機性、物的有機性(交易及び財の保存)の掛け算に依存する。1990年までの日本はこの四つのファクターのいずれも上昇していた。種族集団性を構成するものが、憲法である。コレがないときは生産性がゼロで停滞社会になり、やがて他国に支配される。倉山満氏のいう戦争に勝つために憲法(憲政の常道)があるというのはこのような意味で正解である。
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