公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評 「コンテナ物語」マルク レビンソン(著), 村井 章子訳

2015-01-17 12:31:00 | 経済指標(物流と金融)

ビル・ゲイツが推薦した図書とは知らず、単なる興味から英文版から読み進んだ原題は、The Box : How the Shipping Container Made the World Smaller and the World Economy Bigger


『一九五三年に閃いたのも 、そうしたアイデアの一つである 。当時マクリーンはハイウェイの渋滞が年々ひどくなるのに頭を悩ませ 、また 、政府からただ同然で払い下げ船を買える沿岸海運会社がトラック運送のシェアを奪うのではないかと懸念していた 。そして閃いたのである ─混雑した沿岸道路を走るぐらいなら 、トレーラ ごと船に載せて運べばいいじゃないか 。』


白眉は買収劇、アメリカ初のLBOを強引に成立させる次の下り。

『のちになって 、 「全資産を海運業に注ぎ込まず一部は安全に運用したいと考えなかったのか 」と質問されたマクリ ーンは 、きっぱりと 「全然考えなかった 」と答えている 。 「本気で取り組むには退路を断たなければいけない 」 。パンアトランティック海運の買収は前奏曲にすぎない 。一九五五年五月 、マクリ ーン ・インダストリ ーズは親会社のウォ ータ ーマン海運にも触手を伸ばした 。マクリ ーンと銀行は手の込んだ計画を立てる 。 I C Cが買収に横槍を入れるのを防ぐため 、まずマクリーン ・インダストリーズはウォ ータ ーマンに七万五〇〇〇ドル払い 、沿岸海運事業から撤退して I C Cの事業認可を譲渡してもらう 。次にナショナル ・シティバンクから四二〇〇万ドルを借り入れる 。一件の融資額としては同行の限度額に迫る額だった 。そのほかに優先株を発行して市場からも七〇〇万ドルを調達する 。買収が成立した瞬間にウォーターマンが保有する現金 ・証券など二〇〇〇万ドルで銀行借入の半分近くを返済できるから 、マクリ ン ・インダストリーズの実質的な債務は二二〇〇万ドルに抑えられるという目算である 。』

『ところが実際に契約が成立する前に 、競争相手が現れる 。こちらもナショナル ・シティバンクから融資を受けた相手で 、ウォーターマンの買収に関心を示していた 。付け入る隙を与えないためには 、買収と借入れを同時進行で完了させることが必要だと顧問弁護士は判断する 。五月六日 、ウォーターマンの取締役とマクリーンのメインバンク 、それに顧問弁護士が本社の会議室に集まる 。だが定足数に一人足りなかった 。弁護士の一人が一階に駆け下り 、通りかかった男をつかまえる 。いますぐ五〇ドル稼ぐ気はないか 。頷いた男はすぐさまウォーターマンの取締役に選出され 、取締役会は成立する 。続いて取締役が一人ずつ辞任しては 、代わりにマクリーンが指名した人間を新取締役に選任した 。新しい取締役会は 、ただちに二五〇〇万ドルの利益配分金をマクリーン ・インダストリ ーズに支払うことを決議 。電話で指示が出され 、ナショナル ・シティバンクの口座に電信送金された 。会議が終わった頃になって競争相手の弁護士が現れ 、利益譲渡を差し止める正式書類をウォーターマンの取締役会に提出するが 、後の祭りだった 。』『このとき 、マクリ ーンが自分の懐から一万ドルしか出さずに国内最大級の海運会社を傘下におさめたことに注目してほしい 。この手法は 、いまで言うレバレッジド ・バイアウト ( L B O ) 、つまり買収先企業の資産を担保に買収資金を借り入れて行う企業買収にほかならない 。 「考えてみれば 、あれはアメリカ初の L B Oだった 」とリストンは回想している 。』


急激に成長した日本の米国向け電化製品は、コンテナ輸送に適していた。

『日本の港を最初のフルコンテナ船が出港したのは 、一九六七年九月だった 。当初はマトソン海運と日本の船会社の共同運営だったが 、ノウハウを学んだ日本はあっさりマトソンを外し 、翌年九月にはカリフォルニア向けコンテナ輸送サービスを開始している 。シーランドはマトソンの翌月 、ベトナムからの戻り船を横浜と神戸に寄港させた 。東洋の小国にコンテナリゼ ーションが浸透するだろうかと心配する暇もないうちに 、日本とカリフォルニアの間を行き交うコンテナ貨物の量は 、重量ベ ースで北大西洋の三分の二に達する 。日本の海上輸出貨物は六七年には二七一〇万トンだったのが 、コンテナ輸送が始まった六八年には三〇三〇万トンに増え 、コンテナ輸送が通年で行われた六九年には四〇六〇万トンに達した 。金額ベ ースでみても 、日本のアメリカ向け輸出は六九年だけで二一 %増を記録している (原注 1 0 ) 。コンテナ積みできない自動車が輸出増のかなりの部分を占めていたとはいえ 、コンテナリゼ ーションが貨物増加の大きな原因だったことはまちがいない 。わずか三年足らずで 、日本からアメリカに送られる輸出貨物の三分の一近くがコンテナ化され 、オ ーストラリア向けではその比率は二分の一に達している 。』



ここに至るマクリーンの活劇はこんなものでは描ききれてなしその後の波乱も山ほどあるが、理解して欲しいのは彼が胆力のあるイノベーターだったということ。読めばすぐに出てくるが、マクリーンがコンテナを発明した訳ではない。しかしマクリーン抜きにコンテナ輸送の歴史は語れない。波に乗り波に崩れたビジネスだった。

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