公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

是川銀蔵相場一代

2020-04-29 13:30:00 | 今読んでる本
90年の株式相場崩壊の時是川銀蔵は
チャンスを迎えていることになる。これも株式投資の真実なのである。  そこで私は是川経済研究所の会員に、 「この下げ相場を利用して余裕資金を持つ人は鉄鋼株を買うように」  と奨めた。日本の企業の中で、ここ数年間、内需拡大と景気回復の柱として安定成長し、利益を貯えていたのが鉄鋼会社だったのだ。しかし、 「借金も信用買いもダメだ。自分の余裕資金の中で」  と、条件をつけた上で、買うように奨めた。
今もそういう時である。基本は平均への回帰を信じると言うこと。優良な資産リッチな銘柄を選ぶこと、現物主義。『信用取引に絶対乗ってはいけない』と是川銀蔵もいの一番に言っている。ヒントは全樹脂電池





新日鉄の株価は、五月十二日の四百五十二円から、七月三十日には七百八十九円にまで暴騰、九月に入り八百円台に突入するや十一月三十日には九百六十円、翌平成元年二月二十三日にはというと九百八十四円にまで達する大暴騰を記録したのである。
是川の分析力が確かだから公益条件の変化を投資を具体化出来た。新日鐵の場合はまさに銀蔵の図にあたった。

ほとんど全ての銘柄が先行きが暗い中、有望株を探すのは独自のアンテナが必要だ。


穏やかな日々に投資家の野生に火をつける事態に遭遇した。


 同和鉱業の終戦処理を終え、是川奨学財団の設立後は、財団の運営に情熱を傾ける平穏な毎日が続いた。  昭和五十六(一九八一)年九月十八日の朝も、いつもと同じように散歩から帰り、朝湯につかり汗を流した後、朝食のテーブルの上に置かれている日本経済新聞を開けた。 「金属鉱業事業団、鹿児島県菱刈金山に高品位金鉱脈を発見」  あっと思う間もなく、吸い寄せられるように読み進むうち、次第に胸が高鳴り興奮してくるのがわかる。  菱刈金山の鉱業権者は住友金属鉱山株式会社で、金属鉱業事業団が二本行なった探鉱ボーリングは驚くべき結果を出していた。新聞記事は続けて、 「金鉱脈が発見されたのは鹿児島県伊佐郡菱刈町山田で、(昭和)五十二年に採鉱を中止した大口鉱山の南南東約一〇キロメートルの地点。九月六日に完了したボーリングにより、地下二百四十一~二百八十三メートルの地層で三層の金鉱脈が発見された」  金脈の品位は、上段が厚さ一・二二メートル。鉱石一トン当たりの金含有率は六十三・七グラム。銀四十四グラム。中段は厚さ三・七五メートルで金含有量八十一・九グラム。銀五十二・八グラム。下段は厚さ五・四五メートルで最も品位は高く、金含有量二百二十・三グラム。銀五十七グラム。鉱床は南西方面に約四百メートル延びているというものだった。 「これほどの品位と厚さのものに当ったのは国内で初めて」  採掘した金属鉱業事業団が驚くほどの有望な金鉱脈である。  当時、鉱山業界では、金は鉱石一トン当たりで十グラム採取できれば採算が合うといわれていた。日本の金山は一トン当たり四・九グラムというのが平均品位度で、それまでの最高品位といわれる金鉱でもせいぜい二十グラム台にとどまっていた。  世界一の金山といわれる南アフリカのローデシア金山は三千メートルの地下から採鉱しているが、菱刈鉱山は一トン当たり二百二十・三グラムという高品位の金脈が地表下二百八十三・一メートルという浅い場所に埋蔵されている。ケタ外れな高品位の上に採鉱場所が極めて浅いという有利な条件をそなえた超優良金鉱だ。  体中の血がわき上がり、頭はカーッと燃え上がった。記事を読み進むうちに、久し振りに震えるような感動が全身を襲ってきた。二本のボーリング地点の間隔は七百メートルで、金脈はつながっているかどうかはまだ、わかってはいない。金脈の母岩、つまり金脈の上と下にある岩石のことを母岩というのだが、この母岩は水成岩からなる四万十層とあった。私の頭はここでパアッとひらめいた。 「七百メートルの間隔がある二本の金脈はつながっている」



四万十累層に出た菱刈鉱山は宝の山だった。

平成16年度の調査結果  
16MAHY-4
主に菱刈下部安山岩類中に多数の石英脈が胚胎. 掘進長249.75 - 250.95m(分幅:1.20m)・・・Au:22.02g/t
※うち高品位部/掘進長250.47-250.95m(分析幅:0.48m) ・・・ Au:43.80g/t 掘進長254.60 - 256.84m(分析幅:2.24m)・・・Au:21.58g/t
16MAHY-5 四万十累層群中に石英脈が胚胎
掘進長485.10 - 485.60m(分析幅:0.50m)・・・Au:2.02g/t
16MAHY-6 スメクタイト脈等が認められる.石英脈は認められず. 熱水活動の周縁部と推定される.

略歴
兵庫県赤穂市の貧しい漁師の七人兄弟の末っ子、小山銀蔵として生まれる[2]。小山の家は赤穂では有名な旧家であったが、明治維新で没落した。一家は3歳の時に神戸へ転居し、尋常小学校を卒業した後、14歳で貿易商の好本商会の丁稚となる[3]。1914年に好本商会が倒産すると、ロンドンを目指し出国するが、中継地の中国の大連に着いたときに第一次世界大戦が勃発した。日本軍が山東半島の龍口に上陸したため、軍との商売を目指して龍口へ移った。軍が青島へ向かうと徒歩で追いかけた。途中で金がなくなり生死を彷徨いながらも軍の出入り商人となり、貿易会社小山洋行を設立した。食料品や桐を扱って利益を上げたが、軍の高官に対して饗応を行った為、1915年に贈賄容疑で憲兵に逮捕されたが、未成年であったこと等を理由に無罪となり、日本へ帰国した[4]。
約半年後、再び青島へ渡り、現地の通貨である一厘銭を両替し、金属資源として売却する商売を始める。一厘銭は亜鉛・銅・鉛の合金であり、戦争による金属資源の高騰から2倍以上の価値で売れたため、大きな利益を上げた。しかし、1916年に孫文を支援する日本軍に貸した3万円が返済されなかったことと、12月にドイツからの講和の打診により相場下落の影響で倒産した。[5]
日本に戻り姉婿の縁で龍野市で貝ボタンの工場を経営していたが、自由に活動するために工場を兄に譲り1919年に大阪へ移った。伸鉄工場を作り、亜鉛メッキ工場を買収して大阪伸鉄亜鉛メッキ株式会社を作り、260人の従業員を雇用するようになった[6]。1923年に関東大震災の一報を受けるとバラックの需要を見越してトタン板と釘を買占め、巨利を得た。この取引で得た利益は他人の不幸によるものとして、半分を大阪府へ寄付した[7]。
1927年に昭和金融恐慌が発生し、預金していた銀行が破綻したことなどから倒産してしまった。債権者達は理解があり、事業の継続を支持したが是川は経営を債権者に任せて引退した。恐慌を経験したことから資本主義に対して懐疑的になり、3年間図書館に通い詰めて世界情勢、投資理論を独学した。その上で恐慌は景気循環によって生じる予測可能な変動であるとして資本主義の仕組みは衰退しないと判断した[8]。
1931年、34歳で70円を元手に大阪株式取引所で株式投資を始め、年末までに7000円に増やした[注釈 1][9]。1933年に大阪堂島で「昭和経済研究所」(後の是川経済研究所)を設立し、研究と指導を行った。商品先物を扱う大阪三品取引所では1935年に綿の世界的凶作を見越して綿を買い、売りに回った昭和綿花株式会社の駒村資平と仕手戦を数ヶ月続けた。買い方が優勢で約300万円の利益があったが、解け合いを断った後に相場が反転し、逆に1万数千円の損失を受けた[10]。
各国の経済動向の調査から、アメリカ、イギリス、ソ連が水面下で極東に向けた軍拡を行っていることを予測し、軍・財界・マスコミへ警告を行った。当時は米英との親善外交が主流であり憲兵隊などから取調べを受けたが、企画院の沼田多稼蔵の理解を得て陸軍へ進言するようになった[11]。1938年に朝鮮半島東部・江原道に是川鉱業を設立。これを短期間で軌道に乗せた後、1943年には是川製鉄株式会社を設立させ従業員1万人を雇用する朝鮮有数の大企業となった。朝鮮総督だった小磯國昭との知遇から、1944年の小磯内閣誕生の際には入閣要請を受けたが、断った[12]。戦後、国策会社のオーナーであるため、新生朝鮮の警察に逮捕されてしまう。処刑を覚悟するが、朝鮮人を平等に扱っていたことから、嘆願運動に発展し、釈放される。
戦後は1960年に大阪府の泉北ニュータウン開発でも土地投機を行い3億円を得て、株式相場への復帰資金を攫む。
相場師として市場で話題となったのは、すでに晩年となった昭和50年代に入ってからで1976年の日本セメント、1979年の同和鉱業、1982年の不二家、1983年の丸善石油、平和不動産の株買い占め、仕手戦で名前が知られた。最も良く知られたものは1981年から1982年にかけての住友金属鉱山の仕手戦であった。 
  1. ^ 木下 4-6、250ページ
  2. ^ 木下 24、32ページ
  3. ^ 木下 32ページ
  4. ^ 木下 27-33ページ
  5. ^ 木下 34-37ページ
  6. ^ 是川 81-86ページ
  7. ^ 木下 37-41ページ
  8. ^ 木下 41-44ページ
  9. ^ 木下 44-46ページ
  10. ^ 木下 46-51ページ
  11. ^ 木下 51-53ページ
  12. ^ 是川 149-151ページ
  13. ^ 1982年5月14日日本経済新聞
  14. ^ 1991年7月22日日本経済新聞
  15. ^ 木下 247-249ページ
  16. ^ 是川 133-148ページ
  17. ^ 木下 117-118ページ
  18. ^ 木下 220-234ペー

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