

こういう多才が開花する人生は時代との廻り合いが決めている。誰も真似する必要はないが、多芸は人生の糧になる。人生の失敗や中断に無駄なものはひとつもない。決して多芸を恥じるなかれ。堺屋太一クラスの多芸なら前の大阪万博のように記憶に深く残る。本当は日本万国博覧会という名前だったんだね。当時は単に万博と呼んでいた。なぜなら最初のことだから。
そんな堺屋太一がわれわれに残した言葉
「欲ない、夢ない、やる気ない」の「3Yない社会」こそ、現代日本の最大の危機である。
太陽の塔内部は再生され次世代に堺屋太一の偉業が残された。
日本では、史上屈指の急速な景気拡大が見られた一九五八年から一九八七年にかけて、平均実質所得は五倍に増えた。これほど豊かになり、日本人の生活様式と社会的関係に、良くも悪くもさまざまな変化があったにもかかわらず、日本人の主観的幸福度には驚くほどわずかな影響しか出なかった。一九九〇年代の日本人は、五〇年代の日本人と同じぐらい満足していた(あるいは、不満だった)のだ(34)。
どうやら私たちの幸福感は謎めいたガラスの天井にぶち当たり、前例のない成果をどれだけあげようとも、増すことができないように見える。たとえすべての人に無料で食べ物を提供し、あらゆる疾病を治し、世界平和を確保したとしても、そのガラスの天井を打ち砕けるとはかぎらない。真の幸福を達成するのは、老化や死を克服するのと比べて、それほど楽ではないだろう。
『ホモ・デウス』より
34.Kenji Suzuki, ‘Are They Frigid to the Economic Development? Reconsideration of the Economic Effect on Subjective Well-being in Japan’, Social Indicators Research 92:1 (2009), 81-9; Richard A. Easterlin, ‘Will Raising the Incomes of all Increase the Happiness of All?’, Journal of Economic Behavior and Organization 27:1 (1995), 35-47; Richard A. Easterlin,
私たち同級生が大人になったのはまさにこの奇跡の成長の時代だった。





「目玉男」が当時の状況と思いをテレビで初告白!! (目玉男こと佐藤英夫さん)

そんな岡本太郎氏が、丹下氏が設計した大屋根の真ん前に、高さ六六メートルの「太陽の塔」を建てる提案をした。これを聞いて丹下氏の表情が変わった。 「岡本先生、あなたにはテーマ展示をお願いしている。シンボルタワーは会場の南端に建てる予定で菊竹清訓さんが設計している」 「何をいう、テーマの展示こそ博覧会のシンボル、一目で分かる造形が必要なんだ」 「会場の中央は不適当だ。小型にして隅に移しては……」 議論は激しくなり、図面の前で押し合いつかみ合うほどになった。私は「ここはいったん通産省に引き取らして頂きたい。予算の問題も安全基準の問題もあるから」と申し上げたが、両氏とも収まらない。双方の若き補助者を巻き込んだ、つかみ合いの論争が続いた。 丹下氏が綿密な製図を提出したのはもとより、岡本氏の努力もそれに劣らない。「太陽の塔」の造形スケッチは約二〇〇枚、スケッチブック四冊分もあった。「最後にたどり着いたのがこのシンプルな形。これは『造形の俳句』だ」と岡本氏はいった。 結局、「大屋根の南寄りに大きな穴を開けて『太陽の塔』を突き抜けさせる」案で妥協が成り立ったのは、ひと月ほどのちである。 岡本氏の「太陽の塔」は、圧倒的な存在感を示して日本万国博のシンボルになった。丹下氏が情熱を傾けた「大屋根」は「お祭り広場」を構成して様々な行事が展開された。 第二次世界大戦後の万国博は「人間の博覧会」。それを確立したのは「太陽の塔」に飾られた人間交流の場「お祭り広場」。文明史に残る「人間博覧会」の象徴である。
日本万国博覧会、みぞれの開会式 天には半透明の大屋根、地では国旗を掲げた出展各国の代表団の列。右も左も人の壁。一九七〇(昭和四五)年三月一四日午前、日本万国博覧会(大阪万博)の開会式だ。 この日はみぞれで、東西一〇八メートル、南北二九〇メートルの大屋根の下を寒風が吹き抜けていた。南側正面右寄りの出展者代表の席に座った私には、左後方上段のロイヤルボックスで身じろぎもせず立ちつくす昭和天皇の姿が目映かった。 「この瞬間が一生の思い出、人生最初のハイライトだ」と思った。私はその時三四歳、通商産業省の課長補佐だったが、六年近くも前から万国博に深く関わって来た。最初は伝手も知識もない一提案者、暗夜に叫ぶように訴え、資料をあさって悦に入った。 次には担当の官僚として、開催権の獲得や会場の決定に駆け回った。やがて企画設計や予算の確保にも努力した。 そしてついには官僚の枠を超えて中小・中堅企業の民間出展「生活産業館」の組織者にまでなった。この六年間ほどの私の日々は、万国博覧会で埋め尽くされていた。 その万国博が、今はじまる。もちろん、私は感激していた。興奮もしていた。だが、何よりも心配していた。 「一八三日の会期を恙なく終えられるだろうか」「入場者数が当初予定した三千万人を超えるだろうか」「収支は黒字になるだろうか」。そして「日本国民の記憶に何かを残せるだろうか」。私は生涯にいろんな新しい発想もし提案したが、一面ではひどく心配性でもある。 実際、開幕当時、万国博には心配の種が数多くあった。 当時、世界的
「テレビが普及した世の中では博覧会など時代遅れ」
今ならインターネットが普及したから来たる大阪万博もまた時代に合わないと言われるだろう。専門家とは有害なだけだ。

世界的人気の社会情報学者マーシャル・マクルーハンが「テレビが普及した世の中では博覧会など時代遅れ」と断言、その流れを汲むアメリカのスタンフォード研究所が行った予測調査では「日本万国博の入場者は延べ一八五〇万人」との結論が出た。通産省の当初予定入場者数の六割に過ぎない。 「東洋ではじめての万国博覧会」にも危惧があった。一八三日の会期は長く、オリンピックのような臨時の対応では済まされない。 開催地大阪の市場性にも危惧を示す論調が多かった。「東京ならともかく、大阪で人が集まるだろうか」「大阪の連中はしっかりしているから、弁当持参で来てゼニを使わないのではないか」といった声が数多く出た。 何よりも収支が赤字になるのでは、という声が強い。国庫を司る大蔵(現財務)省と地元大阪府・市の収支尻の押し付け合いは激しかった。誰もが赤字必至と見ていたのだ。 開会式当日が季節外れの寒さだったことも、私には不吉な予兆に思えた。
幸いなことに、全ては杞憂に終わった。万国博の入場者総数は延べ六四二二万人、二〇一〇年の上海万国博までは「世界史上最多の行事入場者記録」だった。営業収支は一九二億円の黒字、国家の年間予算が八兆円程度の時代には巨大な金額である。また三三〇万平方メートルの会場跡地をはじめ多くの資産を残した。 何よりも日本国民に、夢と期待と思い出を残すことができた。 日本万国博は絶好の時期に最良の地で開催され、多くの人材とノウハウを残した。

経済企画庁長官(第55〜57代)、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任した。また、株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長であり、様々な博覧会のプロデューサーとしても活動していた。
本名は池口 小太郎(いけぐち こたろう)であり、ペンネームの由来は、先祖の商人が安土桃山時代に堺から谷町に移住した際の名前である「堺屋太一」から採ったものである(堺屋は屋号にあたる)[4]。
そんな昔の話がよく現代に伝えられたものだと感心するが、文献は多分ないだろう。口伝でも歴史は歴史、良しとしよう。
私が熱中しているのは日本の戦国時代と元禄時代、それに中世東洋史。特に宋、元、明の時代である。北京大学での「朱元璋研究会」は楽しみな会合だった。 私の七つ目の人生の色、それは政治家である。私は長く政治に関わることを避けてきた。「国政選挙に出ろ」といわれた時には通産省を退職して断った。大阪府の副知事を薦められた時にも「年次が若すぎる」といわれて跳び退いた。 それが経済危機の真っ最中に、小渕恵三氏の要請で国務大臣経済企画庁長官になった。議席のない大臣とはいえ閣僚であるからには政治家である。 それだけではない。私は今も大阪府知事・市長を務めた橋下徹氏の応援団長でもある。こればかりはこれからも務めたい。国を愛する者として、捨てられぬ改革への情熱である。 「君子は多芸を恥じる」という。そうだとすれば、私の人生は真に恥ずかしい。 私は大してお金も貯まらず大きな組織も創れなかった。だが、他人に迷惑をかけず、生涯妻を愛し、わが妻池口史子の画業を尊んでいる。そして、今も日本を、日本人の行く末を憂いている。私の多彩な人生は成功だったか、多忙過ぎて失敗だったか、その見方は様々だろう。だが、これだけははっきりいえる。七色の人生は七色の楽しみと苦しみがあると。 二○一五年 日々秋が深まる頃