なんとなくいつも曖昧にされてしまう下総国は今の葛飾区まで広がっていた。輸送網が水運だった江戸時代から明治末期までにかけては、下総の水運が長く権力者の富と軍事力の源泉だった。
(江戸川河川事務所より引用)江戸川は400年ほど前までは太日川(ふといがわ)と呼ばれ、渡良瀬川の水を東京湾へと運んでいました。そう聞くと、渡良瀬川は利根川につながっているのでは? と思うかもしれません。でもその当時、利根川は下の図のように太日川の西側を流れ、走水海(はしりみずの海)*と呼ばれた現在の東京湾に注いでいたのです。その姿が現在のように変わるのは、徳川家康が江戸に移封された近世初期以降のこと。
江戸幕府はさまざまな河川工事を行いましたが、なかでも最大のものが文禄3年(1594)から始まった利根川の流れを江戸の東側に振り向ける「利根川東遷」と呼ばれる大工事でした。60年におよぶ工事の末に利根川は、渡良瀬川、鬼怒川などの水を集めて銚子で太平洋に注ぐようになったのです。現在の江戸川の流れもこの工事に伴って誕生しました。
中川は、今も残る古利根川や元荒川などの支川名からもわかるように、利根川東遷以前は利根川や荒川の本流でした。その後、明治以降の河川改修計画により、江戸川と荒川に囲まれた地域の農業用水路として整備され、さらに新中川の開削、荒川放水路建設を経て、現在の姿になりました。
綾瀬川も江戸時代以前は荒川の水を流す大河だったと思われますが、江戸幕府成立前後に荒川から分離され、以来農業用水路としての役割を担ってきました。
江戸幕府はさまざまな河川工事を行いましたが、なかでも最大のものが文禄3年(1594)から始まった利根川の流れを江戸の東側に振り向ける「利根川東遷」と呼ばれる大工事でした。60年におよぶ工事の末に利根川は、渡良瀬川、鬼怒川などの水を集めて銚子で太平洋に注ぐようになったのです。現在の江戸川の流れもこの工事に伴って誕生しました。
中川は、今も残る古利根川や元荒川などの支川名からもわかるように、利根川東遷以前は利根川や荒川の本流でした。その後、明治以降の河川改修計画により、江戸川と荒川に囲まれた地域の農業用水路として整備され、さらに新中川の開削、荒川放水路建設を経て、現在の姿になりました。
綾瀬川も江戸時代以前は荒川の水を流す大河だったと思われますが、江戸幕府成立前後に荒川から分離され、以来農業用水路としての役割を担ってきました。
平将門の乱
935年に下総の国谷の武士であった平将門が自ら新皇となのり、関東中心で反乱を起こした事件
相楽総三は下総国相馬郡の郷士、薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、下野や相模、江戸市内において旧幕府軍に対する挑発的行為として西郷の指示で工作活動などを行い、これが戊辰戦争の最初の戦いである鳥羽・伏見の戦いのきっかけを作り主戦派西郷に賞賛された。赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得た。しかし、新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとして密かに取消し、年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことであるとして、公家の高松実村を盟主としていた高松隊とともに偽官軍の烙印(明治?年2月10日付け「回章」)を押した。
今もここを占領されると東京は水が入らなくなる。
阪神支局に登場した自称赤報隊のいう反日は反チョソンということ。反天皇も反チョソンということ。
埼玉県志木市宗岡の秋ヶ瀬取水堰が占領されたら、東京都民は80%断水毒水の恐怖にさらされる。だから千葉県知事は重要なのだ。