公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

海軍兵学校五十一期はただの増員ではなかった

2024-01-20 18:58:00 | 今読んでる本
敵兵を救助せよ 恵隆之介

『平成十五年十一月時点で私が把握する工藤中佐に関する情報は、山形県出身、旧制米沢興譲館中学出身ということと、大正十二年七月十四日、海軍兵学校五十一期卒業ということだけであった。  
 海上自衛隊および旧海軍出身者で構成される「水交会」の人事録のいずれからも遺族の捜索はかなわなかった。
  しかし、この活動中に私は五十一期の独特のカラーを発見した。  
 それは、大正デモクラシーという時代と、日本の国力が最も充実した時期とによって、彼らは最もリベラルな教育を受けていたということである。  
 さらには、当時の校長鈴木貫太郎中将(後大将、終戦時の総理)の指導で、教育カリキュラムは歴史や哲学に重点が置かれ、自主的な行動が要求されていた。それのみか、課業終了後、生徒はクラブでピアノを弾き、あるいは和歌を詠むといった芸術的センスまで醸成されていたのである。彼らは、エリートとしてのエレガンス(典雅)をも持つように教育されていたのだった。  
 記録によれば海軍兵学校五十一期は二五五名(建艦競争期を迎え、平時においては突出して多かった)が卒業し、大東亜戦争中、大佐、中佐クラスで戦い、九五名の戦死者を出している。戦死率三七・二%の数字はこの前後のクラス中で突出している。  
 開戦劈頭、彼らは、駆逐艦、潜水艦の艦長、あるいは飛行長として戦い、さらに軍令部や連合艦隊司令部の幕僚の中核を占めていた。』

工藤中佐を含む海軍兵学校五十一期はただの造艦増員ではなかった。教育が素晴らしい。著作家になった実松譲も五十一期だ。
工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年明治34年)1月7日 - 1979年昭和54年)1月12日)は、大日本帝国海軍軍人1942年3月の駆逐艦」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として知られる。最終階級は海軍中佐

実松 譲(さねまつ ゆずる、1902年明治35年)11月20日 - 1996年平成8年)12月20日)は、日本海軍軍人著作家


鈴木貫太郎のお孫さん道子さんが見た聞いた祖父の姿、若くして亡くなった奥様は色白で大原麗子に似ていたそうだ。
『貫太郎は大戦艦「スワロフ」の襲撃に加わって最後を見届け、二隻を沈める戦果を挙げた。帰港してその旨を報告すると、秋山参謀に「君のところだけ二隻では多すぎる、一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ、と言われた。秋山らしい言い方だったので、よろしいと言っておいた」という。自分の挙げた戦果に拘泥せず、言い方が気に入ったからと、あっさり他に譲ってしまうあたりは、いかにも祖父らしい気がする。』


鈴木 道子. 祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔 (pp.88-89). 朝日新聞出版. Kindle 版.

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