『もとより親鸞の思想の特色が体験的であること、人間的であること、現実的であることに存することは争われない。そこに我々は彼の宗教における極めて深い「内面性」を見出すのである。しかし内面性とは何であるか。超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的であるところに、真の内面性は存するのである。内面性とは空虚な主観性ではなく、かえって最も客観的な肉体的ともいい得る充実である。
五濁悪世の衆生の選択本願信ずれば不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり
』三木清「展望」1946(昭和21)年1月 死後初出
「超越的なものが内在的であり、内在的なものが超越的である 」は三木清の魅惑的な誤解である。20代の頃私はそれが忘れられず、いつかこの言葉が自分で咀嚼できるものと思っていた。しかし到達点は全く違っていた。
あらゆる可能性を含むと仮定する内在的なものは空虚である。故に超越は空虚の述語である。真に空虚なものには何一つ内在できない。空虚は覚醒の前にあり、内在を創造する。
前にも述べたが、《デカルトは神の存在を証明するためにこれを逆向きに叙述したに過ぎない。故に、凡ゆる観念を述語として含む主語は、純粋な欠乏、即ち無である。それは神ではない。同様に個人が受容するリアリティの本性は欠乏であり、死が与えるリアリティはその証明である。それ故に自己及びその個性は創造し実現しなければならない。》逆向きとは非存在を宣明した上で、存在を語るということである。
三木清の親鸞解釈の誤りは、言い換えれば、本願の不徹底である。観察する身体を残しながらの本願はない。三木清はどのようにしても跳ね返される身体の底に達していない。なぜなら真の内面性を観察する自分自身を意識の中に残していると思われるからだ。これこそが私の考える三木清哲学における本願の不徹底である。信心と哲学の大きな違い、避けがたい壁を超えていないのである。
三木清(1897-01-05~1945-09-26)
哲学者。京大卒業後ドイツ・フランスに留学し、ハイデッガーらに師事。帰国後、マルクス主義哲学、西田哲学を研究。1930年治安維持法違反で起訴される。1945年再度反戦容疑で逮捕され、終戦を迎えたが釈放されず、獄中で亡くなった。著作に「人生論ノート」「哲学ノート」など。
『私はまた教授(ハイデッカー教授のこと)の紹介でレーヴィット氏の家に通って、フッサールの『論理学研究』を講釈してもらった。レーヴィット氏は、後にマールブルク大学の講師となったが、ユダヤ人であるというので危険を感じ、日本に来て東北大学で教えていたが、ロックフェラー財団の援助によって、日米間の緊張を予感しつつこの春アメリカへ渡ってしまった。氏はそれ以前にやはりロックフェラー基金によってイタリアへ行っていたことがある。レーヴィット氏と同じ家に住んでいた青年マルセール君というのがあった。どこで覚えてきたのか、碁を知っていて、私にたびたび相手を命じた。よい若者であった。マルセール君もやはり今はニューヨークにいるそうである。今日の国際情勢を眺めて、私はよくこの二人の運命について考えさせられるのである。』「読書遍歴」1941(昭和16)年6月号~12月号
和泉 さっき言うた親鸞の言葉、「明日ありと思う心の徒桜」は、「夜半に嵐の吹かぬものかは」と続く。明日も咲いているだろうと思っていた桜も、夜のうちに嵐が吹いて散ってしまうかもしれないと。だから今、得度の儀式をやってくださいと。これは、親鸞が9歳の時、得度される前夜に詠まれた歌とされるけど、最近、ハッと思い当たってね。これはそんな子供の頃に言ったら凄いけど、彼の生涯をずっと感じ取ったら、もしかしたら晩年に言ったんじゃないかなと。色んな経験を積んだ上で、明日があると思っちゃいけんという境地になったんじゃないかなと。我が身に置き換えた時に、親父の時もそうだし、吉田寛裕の時もそうじゃった。いつか会えると思うて、先延ばしにせん方がいい。後悔を残してしまうから。でもそれは、まだわしは現役で医者ができるからね、後悔が残らんように先手先手で、早めに準備していくことはできる。今の自分のフィールドの多くは医者じゃが、医療の現場で仏教的な“味わい”の部分が今こそ大切じゃと思う。細かく分化して、人を分割してここだけ診るみたいなのはダメで、トータルで見る必要がある。これは亀山先生の大切な教えの一つでもあるけれども、そこには、やはり倫理観、宗教観いうのは無視できん。そこを一般の間でももう少し議論していってもらえたらと思うとる。
――終末在宅医療に取り組まれて亡くなった岡部健先生も「臨床宗教家」の活動を提唱していました。そういう出番も必要だと。
和泉 そうですね。今、わしはALSという難病の診療、治療法開発に努力していますけど、1人ひとりの患者さんと直接会って、なるべく時間や思いを共有したいなと思っていますね。
増田 先輩は休みの日は日本中のALSの患者のところへ一人で黙々と空路や鉄路を使って行って、それを診て、励ましています。時間を縫って、ALSに苦しんでいて和泉さんを頼る患者さんのところまで足を運んでおられます。
和泉 大学病院とかにおったらあんまりすることができないんだけども、率先してやっているのは家に行って、その人たちの顔を見て環境を知ること。まだ健康だと思っとるわしたちには、どうしても実感できん部分が多いから。でも、患者さんにとって治療法開発は本当に切実な願いなんじゃ。なかなか来てくれんなと思っていることもあるし、そういうところで時間を割いて診療に行けば、どれだけ治らない病気に対して治療が望まれているかいうのが分かる。そうすると、また治療法の開発研究にも力が入る。患者さんよりこっちの方が人生の後輩じゃ。ナンボ医者として色々知識がある言うても、そんなものは治らない病気になった患者さんにとっては何にもならない。1人ひとりこういう気持ちをお持ちなんだということに向き合う時間が必要じゃ。今、技術がすごく進歩しとるけ、研究室で一生懸命やればもしかしたら成果が上がるかもしれん時代じゃ。しかし役割分担がなされすぎてその人たちは患者さんと会うことは少なくなっとる。じゃが、両方しなきゃいけんのじゃ。今は逆にそれが出来る。技術が進歩しているから。患者と会って、それを治療に結び付けられる時代になっている。今、わしが当時の七帝柔道のようなエネルギー、情熱を傾けているのはそこなんじゃ。
増田 戦後GHQ支配の7年間で、宗教というものも日本人は奪われてしまって……。
ひめゆり学徒隊がたどった足跡 戦争体験者と知らない世代が邂逅
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その後も移動しながら南下し、ついに解散命令が下される。行き場をなくした学徒たちは次々に命を散らしていった。生き延びた元学徒たちは70年前に友を置き去りにした後悔、仲間の死を目の当たりにした恐怖を涙ながらに語った。中でも印象的だったのは「明るいところで死にたい」という言葉だ。当時は攻撃を避けるために明るいうちは壕(ごう)の中に潜み夜移動していた。「日の光を浴びて歩きたい」「明るいところで死にたい」。切なすぎる少女たちの願いは、戦争の残酷さをこれでもかと浮き立たせる。
戦後70年という節目に参加した戦跡巡りは、戦争体験者と知らない世代が邂逅(かいこう)する貴重な機会となった。
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【プロフィル】中江有里
なかえ・ゆり 女優、脚本家、作家。1973年、大阪府出身。89年、芸能界デビュー、多くのテレビドラマ、映画に出演。2002年、「納豆ウドン」で「BKラジオドラマ脚本懸賞」最高賞を受賞し、脚本家デビュー。フジテレビ「とくダネ!」にコメンテーターとして出演中。