先週の土曜日がそんな日だった。外に出た途端に嫌な予感がした。そういう時はできるだけ運転する時は世間話はしないで前後に集中する。出かけないほうがいいのだろうけど社会というものはそういうわけにはゆかない。かの山本五十六もそういうことを気にする方(有り体に言えば臆病)だったと伝え聞く。その日のことは吉村昭「海軍甲事件」に詳しい記載がある。そのようなことを気にして毎日生きているわけではないが、ふっと、今日死ぬかもしれないという日があるのはまともな感覚と思って良い。
それは自分とは限らない、自分の家族、大事な人々かもしれない。意外にそういう確率は高いはずである。そのように考えると己一人が無事だろうと考える日々は慢心の日々と言わざる得ない。
小説家の池波正太郎氏が「男の作法」という語り写しのエッセイで、「人間の一生は、半分は運命的に決まっているのかもしれない。だけど(略)男を磨くか磨かないか、結局はそれが一番肝心ということですよ。それならば、男は何で自分を磨くか。基本はさっきも言ったとおり、「人間は死ぬ、、、、、、」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。」と言っている。彼が50歳代のころの文章だ。若くして亡くなった沢田正二郎もそのような人であったらしい。有頂天の時にバランスを取る感覚は時代のスピードと勢いに流されてしまいがちだ。沢田正二郎は、国定忠治や月形半平太が大当たりしていた頃、若い研究生たちの歌声を聞きながら、「おれたちこんあにめぐまれていていいのかな。いつまでもこんなことがつづくとおもったら大間ちがいだ。今にきっと何か起こる。きっとだ。」と語った。本当かどうかは分からないが阿川弘之の「山本五十六」によると山本五十六をして、緒戦の大勝利の直後「今が、政府として和を結ぶ唯一絶好のチャンスじゃないのか。」と語らしめている。池波正太郎は恩師長谷川伸の「昭和に入ってからの日本人の収支の感覚はゼロになってしまったようだね。」という言葉にピンとこなかったが、50代になってやっと師匠の言う収支=バランスというかたちで文字の上でやっと失われた日本人の感性を理解することができた。
自分たちの幸運が実力だと思っているのが大半の日本人だが、危急の経験を積んだ者は知っている。これまでの人生で、悪い予感というものを大切にした方がいいというのは、様々な危機を脱した人から聞いてきた。ほんの少しで火事になりそうだったた時の「気になってしょうがなく」理由もなく、どうしてもその場に近づいていったこと、一足違いで命拾いしたことを聞く。こうしてみると生き残ったものは語るが、死んでしまった者は語れない。だから潜在的には予感というものはもっと実証可能なことなのかもしれない。
この感じは、何でもかんでも日々を不安に思う杞憂とは違う、今日は何処かがいつもと違うと感じる先には何こともないかもしれないし、大事件が発生するかもしれない。とにかく先週の土曜日のその感じは、外に出るときのドアーが空気を押し返す重さに何か別の何者かが加わっていた、そういう感じなのだ。結局、幸いなことに私にも縁者にも何事もない日だった。
それは自分とは限らない、自分の家族、大事な人々かもしれない。意外にそういう確率は高いはずである。そのように考えると己一人が無事だろうと考える日々は慢心の日々と言わざる得ない。
小説家の池波正太郎氏が「男の作法」という語り写しのエッセイで、「人間の一生は、半分は運命的に決まっているのかもしれない。だけど(略)男を磨くか磨かないか、結局はそれが一番肝心ということですよ。それならば、男は何で自分を磨くか。基本はさっきも言ったとおり、「人間は死ぬ、、、、、、」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。」と言っている。彼が50歳代のころの文章だ。若くして亡くなった沢田正二郎もそのような人であったらしい。有頂天の時にバランスを取る感覚は時代のスピードと勢いに流されてしまいがちだ。沢田正二郎は、国定忠治や月形半平太が大当たりしていた頃、若い研究生たちの歌声を聞きながら、「おれたちこんあにめぐまれていていいのかな。いつまでもこんなことがつづくとおもったら大間ちがいだ。今にきっと何か起こる。きっとだ。」と語った。本当かどうかは分からないが阿川弘之の「山本五十六」によると山本五十六をして、緒戦の大勝利の直後「今が、政府として和を結ぶ唯一絶好のチャンスじゃないのか。」と語らしめている。池波正太郎は恩師長谷川伸の「昭和に入ってからの日本人の収支の感覚はゼロになってしまったようだね。」という言葉にピンとこなかったが、50代になってやっと師匠の言う収支=バランスというかたちで文字の上でやっと失われた日本人の感性を理解することができた。
自分たちの幸運が実力だと思っているのが大半の日本人だが、危急の経験を積んだ者は知っている。これまでの人生で、悪い予感というものを大切にした方がいいというのは、様々な危機を脱した人から聞いてきた。ほんの少しで火事になりそうだったた時の「気になってしょうがなく」理由もなく、どうしてもその場に近づいていったこと、一足違いで命拾いしたことを聞く。こうしてみると生き残ったものは語るが、死んでしまった者は語れない。だから潜在的には予感というものはもっと実証可能なことなのかもしれない。
この感じは、何でもかんでも日々を不安に思う杞憂とは違う、今日は何処かがいつもと違うと感じる先には何こともないかもしれないし、大事件が発生するかもしれない。とにかく先週の土曜日のその感じは、外に出るときのドアーが空気を押し返す重さに何か別の何者かが加わっていた、そういう感じなのだ。結局、幸いなことに私にも縁者にも何事もない日だった。