公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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長禅寺 取手

2021-05-04 18:39:00 | 歴史探訪
取手の長禅寺、同じような名前の寺は山梨にもある。
この長禅寺(ちょうぜんじ)は臨済宗妙心寺派の寺院である。地蔵菩薩平将門の創建と伝わる。下総の四国廻りや閑古鳥 一茶

承平元年(931年)に平将門の勅願所として建立と伝わる。天正年間に廃城となっていた大鹿城は競輪場側にあった。

大鹿山は大鹿城か大鹿氏からのものだろう。利根川図志以外は確実な説明はない。

赤松宗旦 『利根川図志』に詳しい記載と当時の眺望図がある。



赤松 宗旦(義知)(あかまつ そうたん(よしとも)、文化3年7月14日(1806年8月27日) - 文久2年4月21日(1862年5月19日))は、江戸時代末期の医師。下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)生まれ。地誌・利根川図志を執筆した。

生涯
幼少期
文化3年(1806年)7月14日未の刻に生まれた。父は「初代・赤松宗旦(赤松恵)」、産科医で文化人でもあった。母は「ひさ」。利根川図志を執筆した赤松宗旦は、第二代で名を義知という。生まれた場所は、下総国相馬郡布川村(現在の茨城県北相馬郡利根町布川)。

文化7年(1810年)、宗旦の一家は江戸に近い千住宿に転居した。同10年(1813年)、父の恵が死去したため、母の実家がある吉高村(千葉県印西市吉高)に再び転居。宗旦は印旛沼西岸の吉高村で少年期と青年期を過ごす。

医師開業と結婚
文化13年(1816年)、吉高村の医師・前田宗珉に師事。文政8年(1825年)、吉高村で医師を開業した。このころ鈴木友七の三女「トヨ」と結婚。義父の鈴木友七は稲葉藩大森代官所の「御使番」だった。文政12年(1829年)、長女「ふみ」が生まれる。同年、母「ひさ」が死去。天保3年(1832年)に長男「佐与次郎」が誕生。佐与次郎はのちに他家の養子となり、医師として活躍する。

天保9年(1838年)、宗旦は妻と二人の子を連れて下総国布川村に戻った。布川は利根川中流の左岸にあって河岸が発達した町で、同じ下総国布佐(現在の千葉県我孫子市布佐)の対岸にある。天保10年(1839年)、次女「つね」が生まれるが、天保13年に早世。弘化元年(1844年)には、三女「ちか」が生まれた。ちかはのちに婿養子を迎えて家を継ぐ。宗旦は父と同様、主に産科医として医療活動に従事したが、付近の子弟を集めて、漢学・手習なども教えた。俳諧や書画にも親しみ、江戸や下総国・常陸国の医師や文化人と交友を深めていた。天保14年(1843年)刊行の『下総諸家小伝』には、当時の優れた文化人の一人として、宗旦も紹介されている 。

執筆の動機
天保11年(1840年)5月、老中・水野忠邦による「天保の改革」が始まり、印旛沼の開発が計画される。単なる新田開発ではなく、北浦と鹿島灘間の運河開削、さらに印旛沼と江戸湾岸・検見川浦間の運河開削を伴う。東北地方の物資を積んだ船が、太平洋から江戸に直行できる物流幹線を整備する計画だった。利根川流域の環境に与える影響は大きい。『利根川図志』の自序には「皆係利根川之事、吾生其傍、不能無感」とあり、幕府をはばかって控えめな表現になってはいるが、複雑な心情を吐露している。水野忠邦の失脚により印旛沼開発は中止されたものの、その後も再開の動きは絶えなかった。利根川の姿を記録に残したいという宗旦の思いが、『利根川図志』執筆の動機になったと考えられる。




相当古い地図で堤防がつながっていないし常磐線も繋がっていないように見える。明治29年以前の地図か?



昔の競輪場周辺


荒廃するが弟御厨三郎吉秀が守り本尊を密かに守り伝える。

承久元年(1219年)に吉秀の子孫で大鹿城主の織部時平の命で義門和尚を開祖として再興。

文暦元年(1234年)に織部時平が十一面観音菩薩像を四間四面御堂に安置。

慶安2年(1649年)に徳川家光から朱印状を賜り、53を拝領。

元禄9年(1696年)頃に現在地に移転。

宝暦13年(1763年)に三世堂建立(白嗣殿)。

寛政2年(1790年)の大風で三世堂が大破。

享和元年(1801年)に三世堂再建(観音堂)。








平 将頼(たいら の まさより、-將頼)は、平安時代中期の武将。名は将貞とも。平良将の子で平将門の弟。 「御厨三郎」と称す。『尊卑分脈』では四男、『相馬系図』では長子の将持がない為に三男である。 子に将兼があるとされる。


渡しは十六文だった


元禄13年(1700年)の御定相場では、1文は、金1/4000両、銀0.015匁に相当した

というから、今のお金で1200円くらいかな。

一本刀土俵入 長谷川伸

第一場 取手の宿・安孫子屋の前

常陸の国取手は水戸街道の宿場で利根を越えると下総の国。渡しはそこの近くにある。
取手の宿場街の裏通りにある茶屋旅籠ちゃやはたごで安孫子屋あびこやの店頭みせさきは、今が閑散ひまな潮時外しおどきはずれである。それは秋の日の午後のこと。

(安孫子屋は棟の低い二階建で、前と横とがT字型に往来になっている。角店のこの家は突とッつきが広い土間、その他は外から余り見えない。階下と二階の戸袋は化粧塗りの、漆喰細工しっくいざいくで、階下は家号を浮きあがらせた黒地に白、二階は色漆喰の細工物で波に日の出)
(安孫子屋の角柱の処に菊の鉢が一つ置いてある。外側の窓の脇に榎の老木があり竹垣を四方に結ってある。その中で秋草が少し咲いている)
(二階は三尺障子が閉まっている)
店の前に料理人、帳付け、酌婦お吉、お松、その他が立って、道路の向うでしている喧嘩の方を見ている。そっちの方から喧嘩する男の声が聞えているが、だれの眼にもまだ見えていない、二階では近在からきている放蕩者が、酌婦を相手に遊んでいると見え、三味線の爪弾きの音が聞える。

酌婦のイメージ 若村麻由美









若村 麻由美(わかむら まゆみ、1967年1月3日 - )は、日本女優である。東京都練馬区出身。トライストーン・エンタテイメント所属。かつては、仕事に所属していた[1]。昔常磐線快速で見かけた事がある。


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