公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

世界を理解するということ 世界理解の核 絡合構造

2020-12-11 17:38:00 | モナドの呪縛

一般に私達は世界を無限に理解できるというアトミズムの延長可能性、つまりどこまでも分解できる要素からなることを疑わない。中途半端な科学者は特にそうである。物理学上物質の死はプランク面積上の分解不可能な状態情報のデジタルに行きつく。人間の死もある種の情報になる。もはやアトミズムや因果法則では世界の素朴な理解ができない。世界理解の最後は群論に行き着くように思う。しかしなぜ数学になっているのか?

初心に戻って考えてみよう。世界を理解するということはどういうことだろう。定義の仕方によっては、世界の理解は不連続で階層的になる。世界は一つでさえないかもしれない。しかしそれでは原理が一貫しない。まずここを片付けなければこの設問《世界を理解するというとはなんだろう》は前には進めない。

若いときはそういうことは後回しでもいいが、人生も終わりに接近してそろそろこれに触れないわけにはいかない歳だ。と、死後の私がメンターとなって囁いている気がしています。

例えば赤いという情報は赤くない背景から赤い区部が現れる変化情報であって、哲学者が認知判別のための赤属性がアプリオリにあると考えるのは虚妄である。もし属性が変化情報でなければあらゆる知性は赤に気づかない。故に全ての属性は始点と終点を持つ作用またはその開始2元が演算子を挟んだ作用関数と諸結果に還元できる。18世紀哲学者がアプリオリと言ったのは人間知性の一次的論理空間である脳が与える体の中で属性認識演算子は体として閉じているということであって、脳は属性整理棚のようにはなっていない。

さらに言うならば、その属性変化の背景基軸となる時間が語りえないものであるというという皮肉は閉じていない証拠である。まず素朴に、時間は一次的知性である脳の肉体演算作用であって、二次的知性である自然言語が時間論理を正確に記述しようとするならば群の外に出てしまい語りえない。二次的知性に関しては演算子が脳内で閉じていないという認識本質の拡張必然の指摘である。しかしこれは決して超自然ということではない。自然対象であっても哲学言語(一次的知性である脳)の範疇外にあるもの、本質的には演算子、それが語りえないものということだ。

世界を理解するということは、単に記述するということではない。世界の一部をモデル化して紐解くとともにその数理に則り世界の相転移の順序を明らかにするということである。自ずと次の世界はどうなるという予測が立たなければならないのが本質主義の行為である。数の世界を拡張しなければ高次の演算ができないように、死を語るには生のモデルが自ずから死を導き必然としなければならない。生物としての生は太陽エネルギーによる電子の蓄積を酸素に引き渡すまでの階層構造でありその死は電子の不足または受容分子の枯渇である。さらに高次の演算が要求するのが死後の世界である。生という演算を進化掛け算によってではなく、情報化割り算を試す時に無生の世界へと精神を相転移させる順序を明らかにすることが課題になる。

例えばミーリー・マシン





さらに理解する主体が何者でありかつ資格があることを自明としない(中心を措かない思考の理解、脳はそのような意味で考えるという関数の集合の基盤であり、考えるということの実体は多層的に刺激を解釈リレーする皮膚である。それゆえに自己や自我という中心性はない)ことが要件である。したがって一次的知性を言葉で超えるとき言葉をあやつる預言者は高次元の世界理解から排除される。

仮に物理現象を離れてもこれらの拡張性と要件は満たされなければ世界理解するということを定義したことにはならない。
以下余談
例えば積極的に定義すると『芸術とは世界の表現である。』青山昌文

芸術に見られる表現形式はまさに現実と思想信仰を写し取るためにモデル化された世界である。芸術は時代を吸いとって自ずからのロジックで相転移する。これがすなわち自生(執着)である。自生故に芸術は滅びる。滅びれば生まれるという理屈である。

そして芸術を理解する主体資格は自明ではない。なぜなら芸術には個人であれ大衆であれ必ず持ち主がいて芸術の文脈は作家の意図を超えて持ち主が説明を発見する時代文脈の検索行為にある。
余談終わり

さて話を戻すが、この前提に立って世界は無限に理解可能だろうか?答えは否であり是である。モデルには演算子固有の知性限界がある。四則演算結果を自然数に閉じ込めることができないように、変化前の元の演算結果を元の変化前の知性世界に閉じ込めることが可能な時も有ればそうでない時もある。その限界が新しい知識(世界の無限理解契機)の源泉である。神という結果は人類がその自然肉体を用いた思考の最初の集合に含まれない演算限界である。言語もある種の離散群で一般化可能な演算である。無限に理解できるが群の要素は無限には必要ない。

仮に答えを垣間見る、(それは高次元知性に飛躍することだが)、ことなく自問することが思考ならば神は思考しない。神はただ在りただ人に示すのみである。それは数学が数学者に対する態度と同じである。

では無限に探求が前に進むことができる根拠は何か?今のところそれはない。ここにレトリックを紹介しておこう。
根拠がある故に定立する疑問ならば、それを倒置しても真実性は保持されるので、疑問の上に根拠が生えてくるという因果矛盾が生じる。矛盾した疑問と根拠の二項をまとめるには、この間に新たな演算結果を元に加えるほかない。

このように座して無限・立して無限この差がない時、空間が与えられるときに始めて無限理解の旅は終わる。演算子はここにあってもその論理空間が与えられるまでの道程、そこまでが遠い。永遠のっ演算子に辿り着ける根拠は何か、常に疑問はそこに戻ってくる。ここで言える仮の答えが前出の中心のない思考の無限に近い解釈演算リレーの拡張性、必ず演算結果がもとの元である根拠である時に哲学と数学の旅が終わる。


追補
たまたま2020年12月25日金曜日の虎ノ門ニュースで武田邦彦先生が人類による『絡合(らくごう)』の発見という面白い講義をなさっていたが。常に世界認識の疑問がもどってくる底に絡合がある。先生は易しく量子もつれにも言及していたが、私が言いたいのもそういうことだ。こういう世界を無限に理解するという一大事業に立脚するには絡合を承知しているという核が必要ということ。

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