公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

小松政夫

2020-12-12 11:39:00 | 日記

昭和を代表するバラエティー番組『シャボン玉ホリデー』などで活躍した喜劇役者の小松政夫(本名:松崎雅臣)さんが、7日朝、肝細胞がんのため都内の病院で死去した。78歳。通夜は10日、葬儀・告別式は11日に家族らで執り行われた。喪主は妻の朋子さん。

遺作『めぐみへの誓い』









このところ訃報が続く、コロナ蔓延の中、皆さん葬儀はどうしているのでしょう。うちは極少人数で近くに住む親戚だけでやりましたが。

今手元に読んだ電子版でこのような後書きの本がある。

二〇一九年十二月二十日

 残された日々への覚悟もないままに喜寿を迎えて

 by羽毛田信吾 ↤ 古川貞次郎の子分

喜寿を迎えて己の覚悟はなくとも皇統をチョッキンする覚悟はあった官僚人生の終わりの言葉(ご存命)

略歴編集

  • 山口県立萩高等学校を経て京都大学法学部卒業
  • 1964年9月24日 - 国家公務員採用上級甲種試験(区分:法律)合格
  • 1965年 - 厚生省入省。同期入省に山口剛彦(チロリストに殺害された)、田中健次(環境事務次官、厚生省薬務局長)など。
  • 北海道企業局経営管理課長
  • 1976年7月31日 - 北海道水産部水産経済課長
  • 環境庁長官官房秘書課課長補佐羽毛田信吾が松戸に住んでたとは知らなかったが、彼も年ごろになって人生ってものを取り留めもなくまとめはじめた。サラリーマンや官僚はどんなに坂本龍馬に憧れてもそういう生き方はさせてもらえない。道半ば突然終わるのが人生の基本である。サラリーマンや官僚は利害マシーンであって、途中で終わるようでは部品不適格。彼はそういう階段を登るだけの人生だった。羽毛田信吾は40年以上前の貝毒で水産行政にも関わったらしい。スケトウダラ 水産業の話は私も聞いたことがある冷凍すり身の誕生秘話だが、余市水産試験所の逸話はやや可笑しく脚色されている。貝毒 私がまだ大学生だった頃だな。話は北海道だから噴火湾だろう。私がお世話になった講座は貝毒を研究していた。今頃浅川君は何しているだろうか。
  • 追補浅川君は故人となっていた。

昭和十七年生まれが昭和十七年の野菊の唱歌の誕生をどうして不思議とか時代に合わないとか評価できるのか?感性で批評できるのは自分の生きた時代に限定すべきだろう。自分を叱るものが死んでるからと言って偉そうに言うんじゃない。本人も

以下のように自分の欠点を書いているから、わたしの感じたことは当たりだと思う。

『あらためて我が稿を読み返すと、さして知ってもいないことをさも知っているごとく賢しらに書いているなと我ながら恥ずかしくなるものが多い。』第四章少々怪しげな考察 より 萩高校同窓会誌1993年10月「随筆集 言うて詮なきことの記」

俳句
啄木鳥も庵(いお)は破らず夏木立 芭蕉『奥の細道』を引用しているが、確か雲巌寺(次男坊のわが親父が小坊主にされそうになった寺)という栃木県の古刹で。句碑の古いのを見たことがある。裏に回り設置者か寄付者の名前を見て先祖がいてびっくりしたことがある。このオッサンには遠い縁があったのだろうな。


雲巌寺(うんがんじ)は、日本の北関東、栃木県大田原市雲岩寺に所在する臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は東山(とうざん)[1]。本尊は釈迦牟尼仏(銅造釈迦如来坐像)。開山は高峰顕日(仏国国師)、開基(創立者)は叟元和尚(寺伝)。

当寺は俳人松尾芭蕉奥の細道紀行で立ち寄ったことでも知られる。寺域には当時の住職であった仏頂禅師と芭蕉の歌碑があり。


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