誰かが熱心に線を引いた跡のある古い本である。
1928年、三・一五事件の前日に日本を発って検挙を免れて訪ソし[4]、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席、コミンテルン常任執行委員に選任された。モスクワでは日本史の講師としてモスクワ東洋学院の教壇にも立っている。その後、のちのソ連外相モロトフと共にオルグとしてドイツ共産党に派遣され、ベルリンを経て、ロッテルダムからインドに向かい、インド共産党の内紛を調停し、1万ドルの資金を渡した。1929年3月14日に上海に到着する。中国共産党の周恩来に会い、彼の紹介でコミンテルン代表となっていたリヒャルト・ゾルゲに会う。後藤新平死去直後の6月に中国・上海で検挙され、1932年に東京地裁で治安維持法違反により無期懲役の判決を受ける。1933年、鍋山とともに獄中から転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を出した。これはソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、コミンテルンからの分離や満州事変の肯定、天皇制の受容、日本を中心とする一国社会主義の実現[5]を目指すという内容であった。
この声明書の効果は絶大で、一ヶ月もしないうちに幹部の高橋貞樹・三田村四郎・中尾勝男・風間丈吉・田中清玄が転向、学者の河上肇も転向宣言をし、以降雪崩を打ったかのように転向が相次いだ。
1934年5月の東京控訴院判決で懲役15年に減刑されて控訴審判決が確定し、1943年10月に出獄した[6]。1934年石堂清倫(社会運動家 執行猶予5年遠くから来て、さらに遠くへ 《追悼論文》)、中西功(日本共産党参議院議員)、尾崎庄太郎(中国評論家)、栗原佑(大阪市立大教授)、具島兼三郎(長崎大学学長・長崎平和文化研究所所長)、野々村一雄(一橋大名誉教授)、西雅雄(満鉄調査部獄死)、鈴江言一(中国共産党員)、堀江邑一(日ソ協会) etc、多数の「転向」マルクス主義者たちがいた。
戦後
第二次世界大戦終戦後、風間丈吉ら転向者とともに労農前衛党を結成、鍋山らとは民社党の母体となる民主社会主義連盟の創設に参加し、理事を務めた。また、早稲田大学商学部教授などを務め、反ソ連・反共的な立場で『唯物史観批判』(1948年)などを著した。
初代FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァー氏は、左翼(コミンテルン)を「公然の(共産)党員」「非公然の党員(共産党の極秘活動に従事する人)」「フェロー・トラベラーズ(共産党の同伴者)」、「オポチュニスツ(機会主義者)」、「デュープス(騙されやすい人)」の5種類に分類している。(この分類は、江崎道朗氏の著書『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』に紹介されている。)左翼には高い知性の持ち主が時々いる。佐野学もその類の人だろう。その知性がなぜ共産主義の欺瞞に気付かないのか?佐野学は公然の共産党員である。
共産主義者になる深い動機は強い自己承認欲求であろう。(自己承認欲求を儀式化したものがカバル)承認しない世界の側が間違っていると理論的に指導される機会に恵まれれば、正しさの確認に走り出す。オウムの修行や出家と同じである。自己承認欲求は誰にでもある。私は佐野学の転向後の知性の行き場として足利尊氏を選ぶ動機が知りたくなったのでわざわざ古本を買った。