最初から衝撃的始まり。
山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 2018年10月31日)は、女性史研究家、ノンフィクション作家。夫は児童文化研究家の上笙一郎。
そして戦後密航してきた朝鮮人インテリと同じくらい貧しい境遇にどうして至ったか、次第に父親の世代伊号潜水艦艦長とその妻 との関係想像するだけでの本当の母や 自分の記憶 呉から広島へ、そして原爆で失った女学生たち。疎開先での家族の境遇とその変化。戦争に負け軍人遺族年金を失ってからの経済的困難。美貌の過去をもつ作家 女性史研究家は冒頭の惨事に襲われてからどういきかたを変えてゆくのだろう。昨年亡くなったのか。高橋洋子の演技が印象的だった1974年の映画サンダカン八番娼館 望郷の土台となった研究家視点の映像も記憶に残る。《貧困ゆえに戦前の日本から海を渡った「からゆきさん」の人生を追った「サンダカン八番娼館」で、昭和48年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同作は熊井啓監督の手で映画化された。》サンダカンを日本人が記憶に留めるきっかけになった貢献は大きい。映画冒頭の墓の向きについて『ルポルタージュの方法』朝日文庫で本多勝一記者は墓の向きについて他の墓も比べてみて公平に同じ向きだったと山崎のルポルタージュの方法の素人ぶりを指摘している。しかし映画は70年代のベストスタッフによる映画。おかげで人々の記憶の中の歴史的貧困は消えない。たぶん日本に背を向けている(ような)墓の描写がなければ映画化の話はなかっただろう。
山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 2018年10月31日)は、女性史研究家、ノンフィクション作家。
22歳、昭和30年頃(昭和29年4月)から東京に出てからは綾瀬に住んで五反野小学校で教員をしていたから、同じころ7歳のビートたけしの梅島小学校のとなりの学区にいたわけだ。縁があればビートくんを教えていたかもしれない。いずれもひとクラス53人もいたかつてマンモス校と言われた地域である。
『愛と鮮血 アジア女性交流史』三省堂新書 1970 のち光文社文庫
『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』筑摩書房 1972 のち文春文庫
『サンダカンの墓』文藝春秋 1974 のち文庫
『火種はみずからの胸底に』筑摩書房 1974 のち光文社文庫
『随想 胸より胸へ』筑摩書房 1976 のち光文社文庫
『あめゆきさんの歌 山田わかの数奇なる生涯』文藝春秋, 1978 のち文庫
『随筆 ひとあしずつ』主婦の友社 1980 のち光文社文庫
『鳴潮のかなたに 伊号第六十七潜水艦とその遺族』文藝春秋, 1983 のち文庫
『わたし自身をさがす旅』PHP研究所, 1984
『アジアの女アジアの声』文藝春秋, 1985
『引き裂かれた人生』文藝春秋, 1987 のち文庫
『生きて生きて』海竜社 1992
『ひとつ・一枚物語』文藝春秋 1993
『アジア女性交流史 明治・大正期篇』筑摩書房 1995
『わたしがわたしになるために』海竜社 1997
『サンダカンまで わたしの生きた道』朝日新聞社 2001
『朝陽門外の虹 崇貞女学校の人びと』岩波書店 2003
『アジア女性交流史 昭和期篇』岩波書店、2012
共著
『日本の幼稚園 幼児教育の歴史』上笙一郎共著 理論社, 1965 のち光文社文庫、ちくま学芸文庫
『光ほのかなれども 二葉保育園と徳永恕』上笙一郎共著 朝日新聞社, 1980 のち光文社文庫
『「女の生き方」四〇選』文藝春秋 1991 のち文庫
『アジアの女性指導者たち』筑摩書房 1997
『アジア女性交流史研究』上笙一郎共編 港の人 2004