公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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戦争の値段

2022-01-08 09:23:00 | あほの押し売り

 

 
戦争の値段で検索すると太平洋戦争と言い換えられている大東亜戦争では「旧大蔵省が戦後まとめた資料によると、太平洋戦争(日中戦争を含む)における名目上の戦費総額(一般会計と特別会計)は約7600億円となっている。」という記述が出てくる。国会予算の280倍というから、300倍のレバレッジをかけて戦った戦争という計算になる。あるいは日本国が株式会社であったならPER300倍だったとなる。
 
一方米国が日本に振り向けた軍事費の全貌は分からないが昭和20年3月10日未明からの東京大空襲のたった1日の戦争に300機ものB29を飛ばした米国の装備費は今の価格にして一機約100億円、3兆円の装備で、すでに大東亜戦争日本総力約7600億円、おそらく現在の価値に換算して1300〜1520兆円の0.23%となっている。この他にも原子爆弾20億ドルやさまざまな開発費用を投じている。合計50億ドルの投資は現在価値に換算すると公定1ドル15円と言われるが貿易が停止してるので推量で1ドル200円くらいと見ると、米国は日本向け戦争手段の開発投資だけで1兆円以上も使っている。その上3兆円の装備費です。米国は投資の元を取ったのかといえば、数年の占領では回収の見込みはなく赤字だったでしょう。それゆえに今の日米関係がある。

『「歴史家のエリック・ララビー氏は、「B-29は、アメリカの戦争における最大の賭けであり、原子爆弾よりも大きかった(30億ドルの投資に対し、原子爆弾は20億ドルで、同様に確たる証拠がない)」と書いている。最終的にB-29を生み出した超長距離爆撃機プロジェクトは、1939年にドイツがポーランドに侵攻した数ヵ月後に開始され、記録的な速さで開発と生産が進められた。1942年9月11日、ボーイング社の組立ラインから最初のプロトタイプB-29がロールオフされた。終戦までに3,432機が生産された。』『B-29はヨーロッパには配備されなかった。ヨーロッパではすでに射程の短いB-17やB-24がドイツを粉砕していたからである。B-29は日本を攻撃するために必要であったが、当初、中国から発射しようとしたが失敗した。中国の基地は目標から遠すぎるし、ヒマラヤ山脈を越えて補給するのは困難であった。1944年秋には、解放されたばかりの北マリアナ諸島(グアム、テニアン、サイパン)で運用されるようになったが、2万~3万フィートの高空からの爆撃では大きな被害は出なかった。B-29が効果的な殺戮兵器となったのは、新しい指揮官カーティス・ルメイ元帥が、日本の木造都市にナパームと呼ばれる新しい焼夷弾を投下するために、敵の攻撃に耐えるために5,000~8,000フィートの低空飛行を行うことを決定してからである。
1945年3月9日に東京に投下されたとき、飛行士たちは自分たちが虐殺されるのではないかと恐れていたが、実際に虐殺したのは彼らだった。彼らが投下したナパーム弾は火炎放射を起こし、東京都心部の大部分を破壊し、約10万人の死者を出した。これは広島(約13万人)よりは少ないが、長崎(6万人以上)よりは多い。東京への原爆投下についての記述は、広島への原爆投下と同様に不快なものであり、飛行士でさえ人肉の焼ける匂いで気分が悪くなったという。
B-29はその後、日本の60以上の大都市を同じように爆撃したのである。ワシントンD.C.の約3倍に相当する178平方マイル(約1万5千平方キロメートル)が破壊されたが、原爆による被害は全体の3.5%にすぎなかった。トルーマン大統領が原爆使用の決定にさほど悩まなかったのは、すでにアメリカ陸軍航空隊がドイツや日本の民間人を大量に殺害していたことを知っていたからでもある。一般の日本人にとっては、原子爆弾で死のうがナパーム弾で死のうが、さほど問題ではなかっただろう。大きな違いは、東京の中心部を壊すのに334機のB-29が必要だったのに対し、広島と長崎ではたった1機のB-29で済んだことである。
 
ちなみに零戦は一機4億円程度になるらしい。飛燕の活躍も忘れてはいけない。
本土空襲にきた約3万機のうち、何と、陸海軍の本土防空部隊によって485機が撃墜され、2707機が撃破されていた


wiki
1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、前任者ハンセルの方針を踏襲していたが、工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に1月23日の名古屋の三菱発動機工場への爆撃(エラディケート3号作戦)と1月27日に行った中島飛行機武蔵製作所への爆撃(エンキンドル3号作戦)で合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。1945年2月までにアメリカ軍は、中国からの出撃で80機、マリアナ諸島からの出撃で78機、合計158機のB-29を失っており、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。
アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度9,000m前後の高高度から3,000m以下に下げることにした。高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと考えたからである。そして、爆撃高度を下げることによる下記の利点が想定された

ジェット気流の影響を受けないこと。平均風速300㎞/h、最大時では500㎞/hに達するジェット気流は高度10,000mぐらいに一番強く吹いていたが、ちょうどその高度はB-29による高高度爆撃の高度にあたっていたため、ジェット気流に逆行するときには、ひどいときには対地速度が0になり、B-29が空中に浮かんでいる凧同然になっていることもあった
エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること
爆撃の精度が格段に向上すること。アメリカ軍は
弾道学に基づいて精密に計算して作成したデーターブックを使用していたが、高高度爆撃ではジェット気流の影響もあって何の役にも立っておらず、精密爆撃の精度を低下させる最大要因となっていた
高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることができた
ルメイの分析を後押しするように、アメリカ軍の情報部は、今までの日本本土への空襲を検証して、1,500m以上では日本軍の高射機関砲は殆ど効果がなく、高射砲は3,000m以下の高度はレーダー照準による命中率が大幅に低下していることを突き止め、爆撃高度は1,500mから2,400mの間がもっとも効果が高いと分析した
。ルメイの作戦変更には漢口大空襲での成功体験も後押しとなった

しかし低空では日本軍戦闘機による迎撃が強化されるので夜間爆撃とした。夜間戦闘機が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず
、B-29
尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は防御重視のコンバット・ボックスではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するというトレイル(単縦陣)に変更した。

「ミーティングハウス2号作戦」と呼ばれた1945年3月10日の大空襲(下町大空襲)は、前述の超低高度・夜間・焼夷弾攻撃という新戦術が本格的に導入された初めての空襲だった。その目的は、木造家屋が多数密集する
下町の市街地を、そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。この攻撃についてアメリカ軍は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているためと理由付けしていた。 アメリカ軍がミーティングハウス2号作戦の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためである。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。このルメイの訓示に兵士が難色を示すと、ルメイは葉巻を噛み切って「何でもいいから低く飛ぶんだ」と恫喝している。搭乗員の中では、このような自殺的な作戦では、空襲部隊の75%を失うと強硬に反対した幕僚に対してルメイが「それ以上に補充要員を呼び寄せれば済むことではないか」と言い放ったという真偽不明の噂も広がり、出撃前の搭乗員の不安はピークに達していた。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の3個爆撃航空団で、325機のB-29爆撃機が出撃した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗し空中指揮することも考えたが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜され捕虜となって尋問されるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トーマス・パワー(英語版)准将を代わりに出撃させることとした。wiki

原子爆弾 東京投下は排除されてはいなかった。
 

1945年4月27日、陸軍の第1回目標選定委員会 (Target Committee) において以下の決定がなされた。これはアメリカ政府に対しては極秘の元に行われた。

日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。東京都区部横浜市名古屋市大阪市京都市神戸市八幡市長崎市
次の17都市および地点が研究対象とされた。東京湾川崎市横浜市名古屋市京都市大阪市神戸市広島市呉市下関市山口市八幡市小倉市福岡市熊本市長崎市佐世保市

1945年5月10日と11日の第2回目標選定委員会がロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で開かれ、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された

  1. 京都市:AA級目標
  2. 広島市:AA級目標
  3. 横浜市:A級目標
  4. 小倉市:A級目標

このとき以下の3基準が示された

 

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