公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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田中角榮と大学の運営に関する臨時措置法

2018-10-26 20:30:00 | 日本人

田中角榮
たなかかくえい
(1918~1993) 政治家。新潟県生まれ。1972年(昭和47)首相に就任。日中国交正常化を実現。「日本列島改造論」が土地投機と物価上昇を招き、金脈問題が摘発されて74年退陣。76年ロッキード事件で逮捕起訴され、一審で懲役4年の実刑判決をうけ、上告中死去。

ちょうど40歳年上で、今年が生誕百年。40年の差があると、時代は大きく違ったが、今20歳の人にどんな背中を見せて生きられるだろうか?安藤百福も出光佐三も60歳からの人生の人だった。長生きは大切。角榮さんにはあと20年は生きて欲しかった。

われわれ日本人にとって後進を育てるという美徳は、江戸時代で終わる、なぜなら身分制度という長期的事業がなくなったからだ。もちろん完全に身分制度(身分意識を捨てない官吏は除く)が無くなるまで時間はかかった。救いは唯一企業組織の収益構造継続の中にのみ後進を育てる美徳があることだと思う。価値観の堅牢性が社会の身分に求められた世界がすっかり社会の金銭価値の増殖継続に求められる世界に変わり久しいが、そのような行為から美徳が生まれたというにはほど遠い。

田中角榮は議員立法で戦った。その後姿に後進がなにかを受け取ることを期待した。しかしどうだったろう。


「憲法には、国会は唯一無二の立法府と書いてある。内閣や行政府(官僚機構)が法律を作れ、とは書いていない。立法は国会の専権と書いてあるッ。しかし、国会議員は自分達にその能力が無いから、政府提出の法案を唯々諾々と審議しておる。これでは欽定憲法時代の、旧帝国議会の姿と変わりない。・・・・・現在、提出法案の95%以上が政府提出法案であるところを考えてみると、国会議員はもっと勉強しないといかん、と云わざるを得ないッ。そういう意味でね、若い代議士諸君にはいつも議員立法やらんといかんと、いっておるのです」

どんなに今20歳の人に背中を見せても、人生のエンディングに向け逃げ切る姿が後進の美徳育成にはなり得ない。田中角榮が50代の若い時に最も20歳の人のことを思って成立させた昭和44年8月『大学の運営に関する臨時措置法』は、左翼には不評だったが若者に軽蔑されていた大人達が後進を育てる美徳とは何かを日本人に教えた。

大学の運営に関する臨時措置法《この法律は、大学の使命及び社会的責務並びに最近における大学問題の状況にかんがみ、大学紛争が生じている大学によるその自主的な収拾のための努力をたすけることを主眼としてその運営に関し緊急に講ずべき措置を定め、もつて大学における教育及び研究の正常な実施を図ることを目的とする。》

田中角榮といえば日中国交正常化だが、国交がそれ以前になかったかのような歴史は嘘である。田中角榮の成果の実際は日華断交と民間投資利権であることは鬼塚も書いている。これが鬼塚の絶筆。

田中角栄こそが対中売国者である 〈佐藤慎一郎・総理秘密報告書〉を読み解く


あの頃の中共支那は破綻していた。このため外貨のない支那は物物交換しかできない状態だった。それを助けたのが朝日新聞と工作員集団宏池会創業者池田勇人、大蔵官僚出身の下村治田村敏雄らなどである。田中角榮が訪中できたのは、反臺灣中華民国派の工作、自民非主流の田中大平らに 公明 民社を取り込む工作が成功したから。


御厨 貴

公務員の姿をどう描くかは、そう容易なことではない。

筆者の勤め先の大学でも、最近はI種の国家公務員になろうとする学生の意欲がない。

国士型は今や昔だけれども、肩ひじはらぬ個性型も今や少ない。もともとが、"官吏"養成大学であり、これまでそのことにつゆほどの疑いをもたずにきただけに、悩みは深い。

しかし過去には公務員・官僚の黄金時代もあった。そのひとつは、1960年前後に花開いた一群の大蔵省官僚が築き上げたネットワークにある。それは「所得倍増」を実現した。後にも先にも大蔵省という組織から発生し、OBまで含めた様々なタイプの大蔵官僚を連鎖させながら、ひとつの政策を実現させた例はない。

池田勇人田村敏雄下村治それに香川鉄蔵。四人組に共通するのは大蔵官僚ということ。しかも池田・田村・下村の三者は、人生航路を順調に歩んできたわけではない。それどころか、病気体験や捕虜体験で、一度は大蔵省における出世スゴロクから下りざるをえなかった。エリート官僚の挫折そのものだ。その三人が負の部分を抱えこんだまま再び自己実現の道を歩み続けた結果、「所得倍増」という政策課題の達成へとたどりつく。

政治家に打って出て首相になった池田。池田と大蔵省同期でありながら、満州国官僚に転じて挫折を味わい、宏池会事務局長となった田村。長く肺病をわずらい、大蔵省きってのケインジアン理論家となって木曜会をとり仕切り、池田の経済ブレーンとなった下村。

田村と下村を結びつけたのは、帝大哲学科に学びながら中退し、大蔵省嘱託として独自の生き方を示し、若手官僚から「先生」と呼ばれた香川鉄蔵。彼もまた出世スゴロクをとっくに下りた人物であった。

逆境と啼観を生き抜いたこの四人の不思議なネットワークから生み出された「所得倍増」。誰が意図したわけでもない。歴史は時にこうしたいたずらをするものだ。しかしまたこれだけなら、<代表的公務員像>をテーマとする小文の意図にそぐわぬかもしれない。実はこれに、池田側近の同じく大蔵官僚OBの政治家たち、そして戦中-戦後と内閣調査機関に出向した後、大蔵省官房調査課に結集したエリート官僚たちの紡ぎ出すネットワークを無視しえないのだ。

前尾繁三郎、大平正芳、宮澤喜一。彼等はいずれも宏池会の会長を継ぎ、前尾は衆議院議長、大平・宮澤は首相に登りつめた。そして三人とも池田とは異なり、本を好み文章を自ら綴る文人肌のめずらしい政治家であった。かつての大蔵省は、時に驚くほどのエッセイスト・文筆家を輩出したが、彼等もまたその例にもれないということだ。そして「所得倍増」を推進する池田政治のソフトの部分は、まさに各々の資質を生かす形で彼等によって坦われた。

森永貞一郎、石野信一、谷村裕。彼等は、大蔵省官房調査課にあって、吉田内閣時代は池田勇人を支えた。その後、池田の影響力が希薄となった時期には、調査課としての組織防衛をはかりながら、省内に独自のネットワークを確立していく。そして1960年前後から、前記の様々な人脈と交錯しつつ、「政」と「官」との微妙なバランスを維持して、池田の「所得倍増」政策の実現をめざしていく。

こんな幅広く奥深い官僚たちのネットワークが形成された事実があるということを、今こそ想起しておきたい。公務員としての自己実現が、長い時間をかけて国家の行く末を左右する政策を生み出した"幸福な時代"が、いつの日かまたくることを期待して。





驚くべきことにいまだに宏池会は中共と密接交際している。2018年林と程大使は45年経っても「言必信行必果」と言っていた。君子はこれを大義の下に拒否する。

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