初期江戸時代が戻りつつある。
文化・文政年間(1804~1830)を基準とし、金・銀・銭の換算は、幕府の換算基準値の1両=銀60匁=銭4000文としています。また、当時はそば1杯が16文だったことから、現代の価値に換算して1文を30円、そこから金1両を12万円とする。
農民は立派だった。工夫と商品開発で最終的に幕府を倒した。これは自力救済の見本のようなもの
四公六民→三公七民
●江戸時代の年貢は五公五民とか六公四民とかいわれたようですが、実際はどのように取りたてたのでしょう。(神奈川中学3年)
◆ 五公五民とか六公四民というのは年貢率のことで、六公四民ならば、六割が領主の取り分、残りの四割が農民の取り分ということです。農民といっても一人一人の百姓ではありません。江戸時代は村請制といって年貢は村単位で納めたので、領主取り分と村の取り分の分配比ということになります。
8代将軍徳川吉宗の享保の改革が終盤にさしかかった時期であり、勝手掛老中・松平乗邑の下、年貢増徴政策が進められ、春央はその実務役として積極的に財政再建に取り組み、租税収入の上昇を図った。特に延享元年(1744年)には自ら中国地方へ赴任して、年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった。
神尾春央が「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほどとれる」と放言したことはあまりにも有名です。しかし、この放言の前提として、農民がすでに豊かになっている事を理解しておく必要があるでしょう。神尾の放言にかかわらず、幕府の一七一六(享保元)年から一八四一(天保一二)年までの年貢率は三〇~四〇パーセントであり、四公六民から三公七民という状態になってしまいました。
半世紀後の本多利明の著作「西域物語」によれば、春央は「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と述べたとされており、この文句は春央の性格を反映するものとして、また江戸時代の百姓の生活苦の形容として広く知られている(ただし、逆に貧農史観のイメージを定着させてしまったともいえる)。貧富差は必ずあった。
利明の時代認識は「今天下の宝貨皆商家に集まり、威権四民の上に出て、天下の国産凡十六分にして其拾五は商の収納、其一は士農の収納となりたり」(自然治道之弁)「士農二民は此の如く艱難困窮なるは、日本開国以後初めてならん、今茲に改革せざれば其災害を招くに等し」(経世秘策)である。丸山眞男著 『日本政治思想史研究』 東京大学出版会 1952年 287ページ。急進的な欧化主義者であり、蝦夷地の開発や海外領土の獲得、幕府主導の交易、開国論、重商主義などを説く。特に幕藩体制を越えて国家が貿易をはじめとする商業全般を掌るべきとの考えを示し、広く未開の地を開拓せよと説き、欧州国家を見習って植民地政策の必要性も説いている。幕府老中の田沼意次が蝦夷調査団を派遣する際には、下僕の最上徳内を推薦する。
文化・文政年間(1804~1830)を基準とし、金・銀・銭の換算は、幕府の換算基準値の1両=銀60匁=銭4000文としています。また、当時はそば1杯が16文だったことから、現代の価値に換算して1文を30円、そこから金1両を12万円とする。