昭和の火の用心は『焼き肉焼いても家焼くな』『マッチ一本火事の元』だったかもしれないが、マッチさえ火付けのマッチじゃなくなって歌って踊れるマッチ、昭和のうちにマッチは死語になった。
長く本多作左衛門重次 鬼作左の日本一短い手紙が有名だった。重次は秀吉の怒り(何が不興だったかは諸説ある)をかって最終的に下総 (今の取手井野、今は高台住宅地)に蟄居を命ぜられて生涯を終えた。地元に墳墓がある。
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」
古いタイプの武将は有能で忠義に厚ければそれほどに、秀吉にも家康にも面倒だったのかもしれない。甲賀者の統率で名声高い天野氏でさえくだらない理由で改易(江戸では中堅旗本に降格)させられている。島原の復興に功績のあった高力家も四代後には下総を経て一般の旗本に降格している。
下総国は江戸時代幕府重鎮の旗本降格の一歩手前、左遷定番人事だったようだ。
これが現在の穀倉地帯 下総国 取手
特養ルロシェ上空からの360°展望
三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した。奉行に登用された時、非道な事はせず、依怙贔屓をせず、明白に沙汰を遂げ、物事の埒が早く明くので、皆が驚いた[2]。
また武将としても活躍し、永禄元年(1558年)、家康の寺部城初陣に従い功を挙げ、一向宗乱の時には、その宗門であったのを改めて誓書をたてまつり、所々に転戦している[3]。また、小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。
ところが、小田原征伐後に家康が北条氏旧領の関東へ移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。
文禄5年(1596年)7月16日、死去。享年68。家督は長男・成重が継いだ。
尚手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である[5]。