公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる『軍閥と重臣』新聞記者の見た昭和秘史 岡田益吉

2018-08-15 11:22:35 | 今読んでる本

軍閥と重臣―新聞記者のみた昭和秘史 (1975年) - – 古書, 1975

岡田 益吉 (著)

岡田 益吉(おかだ ますきち、1899年 - 1981年4月10日)は、日本のジャーナリスト。


橋本欣五郎(陸軍大学校(32期))と石原莞爾との出会いが描かれている。偶然同じ考えの人物がいる。そう教えたのは町尻量基中佐*(陸軍士官候補生第21期の同期には、石原莞爾陸軍中将や飯村穣中将、百武晴吉中将ら)であり、橋本中佐一人では幹部の巻き込みはさすがに難しい。陸軍大学校卒業徽章のついた仲間が必要だった。橋本が革命後のトルコから3月に帰国して1930年昭和5年4月のことだった。この年桜会を作る。満州事変は1931年9月18日に起こる。ここには書かれていないが、トルコ共和国の外交関係の成立に関係した日本とも縁の深いグルー@ ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)がいる。これが私には偶然とは思えない。偶然であるとしたら悪魔の差配であろう。31年秋には駐日米大使として日本に赴任する。

*町尻量基(まちじり かずもと、明治21年(1888年)3月30日 - 昭和20年(1945年)12月10日)
《伯爵壬生基修の4男で、もと壬生基綱。のちに子爵町尻量弘の養嗣子となる。1914年1月31日、基綱を「量基」に改名[1]。妻は賀陽宮邦憲王の第一王女由紀子女王。陸軍士官学校(21期)、陸軍大学校(29期)を優等の成績で卒業する。
陸軍士官候補生第21期の同期には、石原莞爾陸軍中将や飯村穣中将、百武晴吉中将らがいる。1930年(昭和5年)5月20日から侍従武官を務め、1932年(昭和7年)8月8日、陸軍大佐に進級。1935年(昭和10年)3月15日から近衛野砲連隊長に就任、1936年(昭和11年)3月28日には陸軍省軍務局軍事課長、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍少将進級と共に再び侍従武官に補される。 》

@ 1927年5月、《グルーはトルコ大使に任命され、9月に就任した。この人事に関して、議会では外交官の自己昇進であるとの批判が起こった。ケロッグ長官は、職責と能力でグルーを推薦したと型通りの援護を行ったが、グルーは秘書官に宛てた書簡で、「私はコンスタンチノープルを望んだ訳ではない。私の印象では、政権は私が去ることを望んでいるのだ」と記した。しかし、新生トルコへの最初のアメリカ大使として、グルーはケマル・アタテュルク大統領およびイスメット・イネニュ首相の指導の下、トルコが近代的国家へと歩む過程を目の当たりに見る機会に恵まれたのであった。彼は、アメリカ合衆国が個別にトルコと通商航海条約おおよび居住営業条約を結ぶことに尽力したのであった(それぞれ1929年および1931年に締結、1932年5月に批准成立)。》 (1932年~開戦まで駐日大使、1948年~American Council on Japan, ACJ名誉会長)戦後名誉的地位を得たグルーこそ極東戦後プランの立案者だったのだろう。戦争破壊プランはスティムソンの影にいた何人かと思われる。1930年から1931年までスティムソンはロンドン海軍軍縮会議の米国代表団の団長を務め、イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドや日本全権若槻禮次郎などとの交渉の末、ロンドン海軍軍縮条約締結にこぎつけた。

橋本欣五郎 橋欣(通称ハシキン)が1927年昭和2年のいつからトルコ大使館付武官となったのかわからないが、多分4月だろう。グルーがトルコにはじめ外交官として赴任する1927年9月から1930年にはしきんが帰国するまでには駐日米大使になる前のグルーに会っていても不思議はない。二二六事件の下書きを見せて示唆して見せたと思われる。そうでなければ著者も書いているが封建主義を終われせる革命と昭和維新を結びつけるような欠点に気づいていないはずはない。彼はロシアの専門家である。革命は新政府ないし維新側が直ちに国際承認されなければ政権が維持できないことぐらい知っている。クーデターに外交手腕=外国支援が必要なことは政治の常識である。
 ハシキン《昭和2年(1927年)トルコ大使館付武官として勤務するが、そのころトルコでは封建的なオスマン・トルコ帝国が瓦解し、民族主義的な国民革命が達成されつつあった。それを主導したのがトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ(アタチュルク)である。橋本は赴任早々目の当たりにした革命の息吹に感激し、ケマルの熱烈な心酔者となる。
 その後スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーが昭和4年(1929年)2月11日コンスタンチノープル(イスタンブール)に追放されてきたが、まもなくマルマラ海のプリンキボ島《マルマラ海のプリンスィズ諸島(アダラル)》に移る。トロツキーはここで4年間過ごすのだが、橋本はその動静を探るため大使館の根本外務書記生をプリンキボ島に常駐させていた。橋本は対ソ情報収集やロシア革命研究の過程で、レーニンと共にトロツキーの革命思想・戦術にも強い影響を受けたようだ。
 橋本は昭和5年(1930年)帰国すると、参謀本部第二部ロシア班長となる。同年10月桜会を結成し、クーデターも視野に入れ、一路国家革新運動にまい進し始める。昭和6年(1931年)「三月事件」を企図するが未遂に終わり9月、満州事変にも暗躍する。10月17日、「十月事件」で検挙されるが、重謹慎20日と罪はほとんど問われず姫路野戦砲兵第10連隊付となる。》《
 橋本は新党の名前をトルコの「青年トルコ党」からヒントを得て大日本青年党と名づけ、組織は青年を中核にした大衆動員で成功したドイツの突撃隊やナチスを参考にしたようだ。 》

三月事件の後に橘孝三郎は昭和7年農本主義のクーデターを計画五一五事件に連座するが、橋本らの動きとは全く異なる啓蒙主義的なもので、連動するが、橘の主張に付け足しのように彼の講演に世界革命が付いてくる理由がここで判明した。特に海軍側の五一五事件の裁判で弁護側の減刑主張根拠として日米戦争の開始を想定した日本革新陳述が行われている。この時点で陸軍内部に統制派人脈は確立されているが革新を否定できない理由が来るべき日米戦争であったことは疑いえない。軍人が戦争を前提として政治に干渉し始めれば和平交渉の手段ではなく決戦主義的に機会を限定する議論が進む。

橋本にはちゃんと世界革命主義者レオン・トロツキーとの接点がある。橋本には青年改革主義と世界革命とクーデター思想が混合している。時には農本主義も取り入れていたのかもしれない。三月事件の事態収束は裏にあって糸を引いていた徳川義親が中止の旗を揚げ、活動資金五十万円が返還されるが、後に戦後社会党の結成資金に化けてる。ここに暗躍する河本大作も不思議な存在である。風雲児などと言われるが立派な軍人教育を受けた職業工作員であり、昭和3年の張作霖爆殺事件の計画立案者と言われ知られているが、三月事件に深く関与していたことは知られていたが、身柄は戦後国民党軍に残留参戦して連合国側の自由身分でいながら、東京裁判や南京軍事法廷で事件の証人として呼ばれた事も尋問された事も無い。

しかし三月事件は実に杜撰である。これは以前から私が指摘している革命の青写真ルートが日米に存在したということを裏付けることになる。おそらくその日本側の受け手がハシキンであり、米国側の出し手がグルー大使であったのだろうと私は考える。米国側でハウス大佐がメキシコで何度も試して実績のあるメキシコ方式の革命(カウンタークーデター方式:第一波の反乱に対して鎮圧軍が入り國體を変えることなく政敵を一掃して政治的目的を実現する方式)が二二六事件昭和維新となる。五一五事件に至る非合法活動の陸軍内部処分が甘かったため急に行動が洗練されてくる。
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