公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

書評 「決死勤皇生涯志士」

2015-03-17 19:40:59 | 今読んでる本
珍しく新書を紹介する。
不思議に反ポツダム体制*の志士の青春は左翼と変わらない。ただ師弟の関係があるところが、大いに違う。そんなものかと思い改める。同じ時代を生きると、立場は違っても結局同じ汚れ方をしていくものだ。

生きてさえいれば、何度もでくわせることは価値が低く、一度しか経験できない死に高い価値を見つけることが、あたかも生き様を彩る全てであるかのような選択は愚かである。

死は生きて体験してはじめて意味がある。死にながら生きることが人生の最後のステージと心得るべし。著名者の死に学びたいと思うのなら生の何百万倍も事例を見いだす。病死 不慮の死 自死 全ては同じである。

反ポツダム体制とか反ヤルタ・ポツダム体制ってなんだろうね。ヤルタ会談やポツダム宣言があったことは認めるが、そのような体制は世界のシステムのことなのか国内のシステムのことなのか?
なんらかの普遍的権利が予め自分たちに与えられていると発想するのは右翼も左翼も同じで、入り口から空理空論。民族自決権の侵害とか言うけれど、そんなものは人類史上存在したことがないでしょう。常に誰かが誰かを圧迫している。文明や軍事というものが不均衡発展するから避けられないことなんです。左翼は抵抗権とかいうけれど、これも存在しない空論。右翼の言う民族自決を確立しても新しい支配が存立しなければならないし、かならず内外を圧迫する。永遠に抵抗し続ける社会などを理想とする左翼の論は永遠に完成しない社会を前提とするものだ。そのような自然権の普遍性を前提に全ての強権を否定した社会が実現したならば、言語も使えず、鉄道さえ敷設することができないだろう。そういういいとこどりの都合のいい論の鼓吹は戦争をして勝ってから言えばよい。勝てば論理が逆さまでも許されるのだから。
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