吉井勇も忘れられた歌人、作家。ゴンドラの唄「命短し恋せよ乙女~♬」の作詞者というえば、聞いた覚えがするかもしれない。
立場が貴族だが、もっとも庶民に近づいた貴族だったかもしれない。
「或日の小せん」は本当に小さな短編だが、いかにむかしの芸人が教養人だったかということがわかる。初代柳家小せんといえば、晩年は六代目圓生にも稽古をつけた三好の名人。その芸を知る機会は失われてしまったが、その教え子(弟子とは限らない)たちを通じて遺産が残されている。
落語塾の居残り佐平次の終段がどのように出来たか創作現場を見るようで興味深い。というか庶民が歌舞伎の教養をもっていたからこれが受けたわけで、落語の難しさをすぐに簡単にしてしまう今風はいけないね。落語も能・浄瑠璃>歌舞伎>講談>落語という文化の秩序と芳醇な人情の肥やしがあったから成立していたのであって、いくら人気が出たからといって根無し草じゃ続くもんじゃない。
他にも「雑魚寝」「逢状(あいじょう)」「黒足袋」「老境なるかな」などが無料で読める。年を取れば昔はよかったと言いたくなるものだ。やはり大正から昭和にかけての日本はいい国柄だった。
今は故人になつてしまつたが、私の知つてゐる落語家先代の柳家小せんは、足腰が立たず、目が見えなくなつてからも、釈台を前に置いて高座を勤め、昔からある落語にもいろいろ自分で工夫をして、「芸」に磨きをかけることを忘れなかつた。
久保田万太郎、岡村柿紅、私などが肝煎きもいりとなつて、「小せん会」と云ふものを作り、毎月一回何処どこかの寄席で独演会をやつてゐたが、幸ひにいつも大入だつたのは、要するに当人が芸に熱心だつたからなのであつた。
「五人廻し」「錦の袈裟」「子別れ」「とんちき」「高尾」「山崎屋」「突落し」「居残り佐平次」「磯の鮑」「お見立」「廓大学」「お茶汲」「羽織」「白銅」と云つたやうな廓話くるわばなしが得意で、かう云ふ落語になると足腰の立たない盲目の身でありながら、聴き手の心をぐんぐん引き付けてゆく、不思議な魅力を持つてゐるのだつた。芸の力と云つてしまへばそれまでだが、さうなるまでには一方ひとかたならぬ苦心が重ねられてゐたのであつて、およそ世の中の「芸」と称せられるものには、何処か頭の下がるやうな底光りが感じられるのは、切瑳琢磨と云つたやうな心の研みがきが、幾十度となくかかつてゐるからなのだらうか。
小せんも落語には、いろいろ苦心をしてゐたが――或る日のことである。
「小せんさんゐるかい。」
厩橋の直ぐ近くをちよつと曲つた、小せんの家の格子戸をがらりと開けて、声を懸けたのは岡村柿紅君。
「ああ、どうぞお上んなすつて下さい。」
障子の中からさう云つて返事をしたのは、まさしく小せんで。
「やあ、稽古か。」
上がると直ぐ茶の間で、瀬戸物の火鉢を中に、小せんと向ひ合つて坐つてゐるのは、近頃声色こわいろで売り出した小山三。見ると私はさう云つて、柿紅君と一緒に奥の座敷の方へ通つた。
「ちよつと失礼します。」
と云つて、小せんが小山三に稽古をしてやつてゐるのは「高尾」の一節で、声色の冒頭として教へてやつてゐるらしい。
「ここまで話して置いて、それから声色にかかるんだ。いいかい。分つたかね。今度来るまでに幾度も自分でやつて見るがいいや」
と云つてから稽古を終つた小せんは、女房のお時に助けられながら、私達のゐる座敷の方へ居ざつて来た。
「如何も失礼を致しました。上野の師匠(三代目小さん)に頼まれて、若い輩五六人に稽古をしてやつてゐるもんですから、近頃はこれで中々忙しいんです。」
「さうかい。そりやあ結構じやないか。」
「ええ、お陰様で皆さんが心配して下さるもんですから、こんな体になつても、如何にかかうにかやつてゆけます。」
小せんはさう云つて、色の黒い面をちよつと伏せたが、暫くすると何か思ひ出したやうに顔を上げて、
「ねえ、岡村先生。あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢揃ひの場で、それぞれツラネの台詞せりふがありますね。あの中の忠信利平のは何とか云ひましたね。餓鬼の時から手癖が悪く――」
「抜け参りからぐれ出して。」
「ああ。さうさう、旅から旅を稼ぎ廻り。」
と云ふ小せんの言葉を継いで、柿紅君はすらすらと、
「碁打と云つて寺方や、物持百姓の家へ押し入り、盗んだ金の罪科つみとがは、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛なし――と云ふんだらう。」
と云つてから、
「何だい。何かにこれを使ふのかい。」
立場が貴族だが、もっとも庶民に近づいた貴族だったかもしれない。
「或日の小せん」は本当に小さな短編だが、いかにむかしの芸人が教養人だったかということがわかる。初代柳家小せんといえば、晩年は六代目圓生にも稽古をつけた三好の名人。その芸を知る機会は失われてしまったが、その教え子(弟子とは限らない)たちを通じて遺産が残されている。
落語塾の居残り佐平次の終段がどのように出来たか創作現場を見るようで興味深い。というか庶民が歌舞伎の教養をもっていたからこれが受けたわけで、落語の難しさをすぐに簡単にしてしまう今風はいけないね。落語も能・浄瑠璃>歌舞伎>講談>落語という文化の秩序と芳醇な人情の肥やしがあったから成立していたのであって、いくら人気が出たからといって根無し草じゃ続くもんじゃない。
他にも「雑魚寝」「逢状(あいじょう)」「黒足袋」「老境なるかな」などが無料で読める。年を取れば昔はよかったと言いたくなるものだ。やはり大正から昭和にかけての日本はいい国柄だった。
今は故人になつてしまつたが、私の知つてゐる落語家先代の柳家小せんは、足腰が立たず、目が見えなくなつてからも、釈台を前に置いて高座を勤め、昔からある落語にもいろいろ自分で工夫をして、「芸」に磨きをかけることを忘れなかつた。
久保田万太郎、岡村柿紅、私などが肝煎きもいりとなつて、「小せん会」と云ふものを作り、毎月一回何処どこかの寄席で独演会をやつてゐたが、幸ひにいつも大入だつたのは、要するに当人が芸に熱心だつたからなのであつた。
「五人廻し」「錦の袈裟」「子別れ」「とんちき」「高尾」「山崎屋」「突落し」「居残り佐平次」「磯の鮑」「お見立」「廓大学」「お茶汲」「羽織」「白銅」と云つたやうな廓話くるわばなしが得意で、かう云ふ落語になると足腰の立たない盲目の身でありながら、聴き手の心をぐんぐん引き付けてゆく、不思議な魅力を持つてゐるのだつた。芸の力と云つてしまへばそれまでだが、さうなるまでには一方ひとかたならぬ苦心が重ねられてゐたのであつて、およそ世の中の「芸」と称せられるものには、何処か頭の下がるやうな底光りが感じられるのは、切瑳琢磨と云つたやうな心の研みがきが、幾十度となくかかつてゐるからなのだらうか。
小せんも落語には、いろいろ苦心をしてゐたが――或る日のことである。
「小せんさんゐるかい。」
厩橋の直ぐ近くをちよつと曲つた、小せんの家の格子戸をがらりと開けて、声を懸けたのは岡村柿紅君。
「ああ、どうぞお上んなすつて下さい。」
障子の中からさう云つて返事をしたのは、まさしく小せんで。
「やあ、稽古か。」
上がると直ぐ茶の間で、瀬戸物の火鉢を中に、小せんと向ひ合つて坐つてゐるのは、近頃声色こわいろで売り出した小山三。見ると私はさう云つて、柿紅君と一緒に奥の座敷の方へ通つた。
「ちよつと失礼します。」
と云つて、小せんが小山三に稽古をしてやつてゐるのは「高尾」の一節で、声色の冒頭として教へてやつてゐるらしい。
「ここまで話して置いて、それから声色にかかるんだ。いいかい。分つたかね。今度来るまでに幾度も自分でやつて見るがいいや」
と云つてから稽古を終つた小せんは、女房のお時に助けられながら、私達のゐる座敷の方へ居ざつて来た。
「如何も失礼を致しました。上野の師匠(三代目小さん)に頼まれて、若い輩五六人に稽古をしてやつてゐるもんですから、近頃はこれで中々忙しいんです。」
「さうかい。そりやあ結構じやないか。」
「ええ、お陰様で皆さんが心配して下さるもんですから、こんな体になつても、如何にかかうにかやつてゆけます。」
小せんはさう云つて、色の黒い面をちよつと伏せたが、暫くすると何か思ひ出したやうに顔を上げて、
「ねえ、岡村先生。あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢揃ひの場で、それぞれツラネの台詞せりふがありますね。あの中の忠信利平のは何とか云ひましたね。餓鬼の時から手癖が悪く――」
「抜け参りからぐれ出して。」
「ああ。さうさう、旅から旅を稼ぎ廻り。」
と云ふ小せんの言葉を継いで、柿紅君はすらすらと、
「碁打と云つて寺方や、物持百姓の家へ押し入り、盗んだ金の罪科つみとがは、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛なし――と云ふんだらう。」
と云つてから、
「何だい。何かにこれを使ふのかい。」