もののあはれは誤解されていると思う。どちらかというと王朝文化の哀愁人生の無常を知るという価値観は儒学や仏教に起源を持たないと国風いうことを学校でも教えられる。源氏物語集約される王朝宮女官の目で綴った人生の無常はたしかにもののあはれであるが、本居宣長が実証するために引用しているからと言って人生の哀愁がすべてではない。
日本人は偉大な『はじめにいた人々』の歴史を忘れた。しかしそこを源泉とする国の成り立ちの中の無意識と形式に織り込まれ、しばしば個人を上回る何者かに動かされるかのように もののあはれ は発揚した。今国民は国難を克服してきたこうした天然の一致団結心、本居宣長の国風精神をただの古いもの、戦争の過ちの遠い原因として打ち捨てている。
どちらかと言うと和辻哲郎の強調する絶対者との関係でもののあはれを立体化して動的に理解すべきと思う。「全き者」の影を抱き、その反影たる犠牲の念の下に力ーライルの言う「義務」をなしという心情が大切だと思う。
吾人は自らの人格を想い、自らの行為を省み慨嘆に堪えないものである。されどこの主義の下に奮闘するは辞するところでない。吾人の胸には親愛義荘の権化たる「全き者」の影を抱き、その反影たる犠牲の念の下に力ーライルの言う「義務」をなし果たさん事を思う。かくて吾人は厳々乎として現実の社会を歩みたい。 吾人はさらに進んで一言付加したい事がある。日本の武士道は種々なる徳の形を取れどその根本は真義愛荘に啓示を得て物質を超越し霊的人生に執着するにある。勇気、仁恵、礼譲、真誠、忠義、克己、これすべてこの執着の現象である。ただ末世に至って真の精神を忘れ形式に拘泥して卑しむべき武士道を作った。吾人は豪快なる英雄信玄を愛し謙信を好む。白馬の連嶺は謙信の胸に雄荘を養い八つが岳、富士の霊容は信玄の胸に深厳を悟らす。この武士道の美しい花は物質を越えて輝く。しかれども豪壮を酒飲と乱舞に衒い正義を偏狭と腕力との間に生むに至っては吾人はこれを呪う。
底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社 2007(平成19)年4月10日第1刷発行初出:「交友会雑誌」 1907(明治40)年11、12月