日本は霊的国だったので欧米諸国が束になっても半分くらいしか壊せなかった。信じられないかもしれないが1942年2月25日未明のロサンゼルスのパニック、B29行方不明事件を見るがいい。
欧米人には江戸末期日本を容易に壊せなかった。
それゆえに今日本を占領しようとする勢力は、幕末の日本破壊の成功に学んで行動するだろうという仮説の下に、ヤツらの予定表を幕末維新の順に合わせて作成してみた。
起点は2022年7月8日である。
終点は2029年12月23日である。遅れたとしても2030年1月末までにクーデターを完了させる令和11〜12年。
幕末期の日本は反幕府が攘夷から開国、公武合体から王政復古と捻れている。それは不幸にも棄捐令寛政元年(1789年)〜大塩 1837年〜時間をかけて目覚めてきた日本人が主導権をとる前に外圧のクーデターが実験されたからです。幕末クーデターのポイントは政治家トップを殺し、錦の御旗だけを盗み皇室トップを見殺しにすることで血統が無縁な家系に交代してロボットとなる。霊的日本の終了。
江戸末期の外圧のクーデターには、前史がある
この中で最も重要なのが
グラバー来日とマッケンジー中国異動までの期間(1859年9月〜1861年)であろう。
グラバーは安政6年(1859)9月、開港と同時に上海経由で長崎へ来航。同じスコットランド人であるケネス・R・マッケンジー(大浦国際墓地参照)が経営していた貿易商社に勤務する文久元年(1861)、一旦マッケンジーが中国へ去ると、その仕事を引き継ぐと同時に「グラバー商会」を旗揚げする。
次に水戸浪士による井伊直弼の暗殺。
和宮の降嫁。孝明天皇の不審死。
これに対応するのが
2022年1月23日、
ラーム・エマニュエル駐日大使日本に着任
《幕末》1859年9月 グラバー来日 21歳 1859年、日本の横浜にジャーディン・マセソン事務所を設立
2022年7月8日、
安倍晋三暗殺
《幕末》1860年3月24日 井伊直弼暗殺 桜田門外ノ変
2024年3月 愛子内親王殿下成人 赤十字就職
《幕末》1861年11月22日 和宮降嫁
2024年9月11日、
愛子内親王殿下婚約発表。相手は元皇族ではない一般人
塩谷立、下村博文、西村康稔、世耕弘成清和会幹部処分
プラス森の安部派解体、自民党保守政治の終焉
《幕末》1861年11月22日 和宮降嫁
《幕末》1858年3月12日 岩倉具視ら廷臣八十八卿列参事件
安倍晋三に続き 森 二階の首を落とす。イマココ:森 首のこひき中
《幕末》1858年8月24日,島津成彬不審死 1860年9月29日徳川斉昭 相次ぐ死亡
2024年10月27日、
自民党総選挙大敗
自民公明国民政権発足 公明が総理大臣を出す。
この画像は、中国の中国人民解放軍(PLA)創建97周年を記念する公式行事で、軍の幹部や要人が集まっている様子を描いています。背景には中国語の赤い横断幕があり、金の星や軍の記章が描かれています。前列の人々は軍服を着用し、勲章や装飾品が付いているものもいれば、スーツやフォーマルなドレスを着ており、リボンのバッジがついている人々もいます。会場は室内で、おそらく講堂や会議室であると思われ、全体的な雰囲気は正式な式典の様子を表しています。
2024年12月 中間の仕上げ 不平自民を黙らす平議員自民党の指導者の誰かを政治生命を断つ?あるいは殺す。
第一候補青山繁晴(非民主党)第二候補河野太郎(知りすぎた非習近平)
《幕末》1867年12月10日 近江屋事件 中岡慎太郎(愛国者) 坂本龍馬(知りすぎた者の暗殺)
2025年1月 憲法改正発議
《幕末》攘夷から開国へ
伊藤博文らによって孝明天皇が暗殺され、田布施村出身の奇兵隊士・大室寅之祐(おおむろ・とらのすけ)が替え玉として明治天皇に即位した。
《幕末》王政復興と血統交代 北朝から偽南朝へ
2029年12月23日 日曜日 最後の仕上げ 遅くても2030年1月23日までに日本を壊す。
今上天皇陛下急病で死亡これにより真性皇統は消滅 血統交代 日本の霊性が
愛子の他には岐南町天皇は存在しない状態になる。
美智子不倫不義の子が天皇に
《幕末》1867年1月30日孝明天皇崩御
クーデターはまずテロで始まる桜田門外ノ変
- 1月22日(1860年2月13日) 日米修好通商条約批准書交換のため万延元年遣米使節が米艦ポーハタン号で出発。護衛名目で咸臨丸も渡米。
- 2月5日(1860年2月26日) オランダ人船長殺害事件。日本の外国に対する賠償金支払いの初例となった[4]。
- 3月3日(1860年3月24日) 桜田門外の変。井伊直弼、暗殺される
- 3月18日(1860年4月8日) 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため万延に改元
- 3月27日(1860年4月17日) 遣米使節、ブキャナン大統領に謁見し批准書9月27日(1860年11月9日) 遣米使節帰国
- 12月5日(1861年1月15日) 米通訳ヒュースケン殺害、
- 10月20日(1861年11月22日) 和宮親子内親王、将軍徳川家茂へ降嫁[2]。翌月、供の岩倉具視、廃帝の企てなしとする家茂自筆の誓書を得る[2]。
- 12月23日(1862年1月12日) 文久遣欧使節(開市開港延期交渉使節)、出発
- 12月(1862年1月) 幕府、水野忠徳を小笠原諸島に派遣、翌文久2年5月に領有宣言
攘夷から開国へ