三笠付け みかさづけ
江戸時代,宝永(1704-1711)頃から江戸を中心に行われた冠付けの一。初五の題を三つ出し,それぞれに七五を付けて,その三句一組みの点の優劣を競うもの。のちには数字に置きかえて,博打(バクチ)化し,禁止された。
露光はひと口茶を啜ってから、また笑顔になった。 「これといった仕事もなく、さっきのような危ない場所に首を突っこんで暮らしているのだったら、知り合いにあんたを世話しようかと、ふっと思ったものでな」 「知り合い? どういうひとですか」 警戒するように弥太郎は言った。男は奉公先を世話してくれるつもりらしいが、弥太郎はこれまでのいきさつから、自分は奉公には向かない人間だと思っていた。 いまのように行きあたりばったりの、日雇い仕事に入るまで、弥太郎は十指にあまる奉公先を転転としている。 「馬橋の油屋で、大川という家です。そこから人を頼まれていてな」 「馬橋というと、下総ですか」 男の言う奉公先が、江戸の内ではないことが、弥太郎の心を惹いた。江戸人の意地の悪さには懲りている。 「下総たってあんた、松戸の先だからそんな遠いところじゃない。いいところですよ、宿を一歩はずれれば、のんびりした景色で」 「………」 「大川という家は、そのあたりじゃ聞こえた金持ちでね。旦那が立砂といって俳諧に凝っています。旦那芸だが、たしか今年の春点者に推されたはずだから、ご本人もただの道楽とは思っていないようだ」 「………」 「あんたをそこへ世話しようかと思ったのはですな。三笠付け、ありゃあんた賭けごとですよ。その三笠付けで、あんたの付けっぷりがあまりに見事なもので、少し俳諧を勉強してみたらどうかと思ったもんでね」 「俳諧、ですか」 男の言うことはわかった。だが、弥太郎はまだ十分に意味を掴みかねて、貧しげな俳諧師の顔をみた。男は、まだ弥太郎を誤解しているかも知れなかった。弥太郎が、ご法度を承知で三笠付けの興行をのぞきに行くのは、金がめあてで、俳諧が好きなわけではなかった。
今しがた馬橋駅を越えた。
今日五回昨日三回おらが夜
小林一茶は異常にセック好きだったらしい記録がある。
小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に北信濃の北国街道の宿場町、柏原に生まれた。小林家は柏原では有力な農民の家系であり、一茶の家族も柏原では中位クラスの自作農であった。幼い頃に母を失った一茶は、父が再婚した継母との関係が悪く、不幸な少年時代を過ごす。一茶を可愛がっていた祖母の死後、継母との仲は極度に悪化し、父は一茶と継母を引き離すことを目的として15歳の一茶を江戸に奉公に出す。この継母との確執は一茶の性格、そして句作に大きな影響を与えた。
15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める25歳の時まで一茶の音信は約10年間途絶える。奉公時代の10年間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。25歳の時、一茶は江戸の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として再び記録に現れるようになる。葛飾派の俳諧師として頭角を現しだした一茶は、当時の俳諧師の修業過程に従い、東北地方や西国に俳諧行脚を行った。また自らも俳諧や古典、そして当時の風俗や文化を貪欲に学び、俳諧師としての実力を磨いていった。39歳の時に一茶は父を失い、その後足かけ13年間、継母と弟との間で父の遺産を巡って激しく争うことになる。