- 「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権にして「大本の力は即国の普遍力」」
不二かんながら「太古から分かち難し」かんながら「神道は、言挙げしない」せぬ國である。
この主張は、時代劇のように古臭いが、現代においてかんながらの道を再構築しなければ日本国はその文明本質から永遠に失われるだろう。
筧克彦とは
国家が皇統と分かち難いのが日本の国家性、つまり國軆であり、かんながらの道を残すために、法的に少なくとも皇統の家長として天皇が統べる自己統治が必要。つまり、戦前までその根拠法であった皇室令の復活を必要としている。
我々の經驗がロゴスの指導のもとに立つてをり、また立つことが出來る限り、我々には何の不安も起ることがない。
三木清はおよそ100年前に次の文章を残す。はたしてそうだろうか?常識とはそれほど信頼に足るものであろうか?一世代まるまる禁じられただけで常識は失われてしまう。
『人間の生活に於ける日常の經驗はつねに言葉によつて導かれてゐる。普通の場合ロゴスは人間の生活をあらかじめ支配する位置にある。我々は通常我々の既に有するロゴスの見地から存在と交渉する。我々は我々の經驗するところのものが言葉をもつて語られ得るやうに、言葉によつて解決され得るやうに、恰もその仕方に於て存在を經驗するのである。經驗の斯くの如き仕方から私は私の基礎經驗と呼ぶものを區別する。日常の經驗がロゴスによつて支配されてゐるのに反して、基礎經驗はロゴスに指導されることなく、却てみづからロゴスを指導し、要求し、生産する經驗である。それは言葉の支配から獨立であるといふ意味でひとつの全く自由なる、根源的なる經驗である。しかるに經驗はロゴスに於て表現されることによつて救はれ、公共性を得て、安定におかれることが出來るから、我々の經驗がロゴスの指導のもとに立つてをり、また立つことが出來る限り、我々には何の不安も起ることがない。最も公共的なロゴスである常識にもとづいて凡ての存在と關係し、常識の言葉の解決し得るやうにあらゆる存在と交渉する普通の生に、不安の屬することがないのは當然であらう。基礎經驗はその本來の性格として既存のロゴスをもつて救濟され、止揚され得ぬものである、したがつてそれはそれの存在に於て不安であるであらう。ロゴスは經驗を固定し、停止せしめる作用をするのであるが、ロゴスの支配し能はぬ根源的なる經驗は動性として存在するの外ないであらう。不安的動性は基礎經驗の最も根本的なる規定であらねばならぬ。言葉は經驗を救ひ、それを公にすることによつて、それに謂はば光を與へるのであるから、在來の言葉をもつて表現されることを拒むところの根源的なる經驗はそれに對して闇として經驗されるであらう。基礎經驗は現實の經驗としてはひとつの闇である