麻生太郎のあとがきが面白い。母も父も政治家吉田茂にかかりきりだったので、寂しい思いもあったらしい。
日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。この農地改革のくだりも面白い。GHQは戦争支持していた階層の社会基盤である土地所有の解体が二度と戦争ができない不具の国にするために徹底が必要ということで一次案を否定して徹底的に行ったというのが定説だったが、社会主義者を実行責任者にして破壊を進めたのは、吉田茂としては日本で共産主義革命が起こらないように私有財産所有層を増やすため意図し指名したことらしい。実施責任者は和田博雄(1903-1967)¥である。和田は治安維持法違反である企画院事件の主謀者として、部下の勝間田精一(後の社会党委員長)、稲葉秀三(後に国民経済研究協会設立、サンケイ新聞社社長)らとともに3年間投獄され、無実とはいえど立派な闘志を見せて生死の境をさまよった経験のある社会主義信奉者だった。
¥和田 博雄(わだ ひろお、1903年2月17日 - 1967年3月4日)は、日本の政治家。第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で経済安定本部総務長官、物価庁長官。その後左派社会党政策審議会長・書記長、日本社会党政策審議会長・国際局長・副委員長を歴任する。
『GHQの農地改革担当者、ラデジンスキー博士は後日、社会党の実力者となっていた和田と会談した際、和田に農地証券がインフレによりただ同然になることを予想していたのかと質問した。和田は言下にイエスといい、「もし、農地証券を物価にスライドさせていたなら、政府の重い財政負担によって今日のような日本経済の成長はなかった。あの時博士が譲歩してくれたのは日本経済のその後の発展への最大の貢献だった」と答えている。』尚引用した山下一仁の寄稿『農地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄』は農地改革は自主的提案と評価している、その中より引用
和田博雄は骨のある人間であったようだが、ラデジンスキーとの対談が実証しているように無価値化する予定の下に農地証券と農地を強制交換するやり方は詐欺であり、特定の階層からの資産収奪。こういう不法行為は中ソの全体主義の正義の為に犯罪が許されるという発想であり、後にできる安本(経済安定本部)も民主化に見せかけた計画経済であったことは無自覚に今も続く。正義の犯罪が高級官吏の成功体験となった官庁病理の根源だと思う。
農地分割譲渡の強制と価格の据え置きは、水田760円とインフレで長靴の価格842円にもならない。繰り返すが明白な資産召し上げの不法行為であった。強制譲渡は敗戦後に起きた財閥解体や公職追放が可逆的変化であったのに対して、不可逆の階層没落だった。不可逆という意味で軍の消滅に匹敵する大きな敗戦国の不具化、死に体を場外で処刑する行為と同じ日本兵俘虜のシベリア抑留と並ぶ国際的不法行為だった。米国は日本の重要書籍を軍国主義の名目で焚書して日本の精神の目玉をくり抜き、財閥解体、技術基盤破壊と研究禁止その上に農地改革、公職追放と足腰の立たない不具の国にした。これはジュネーブ条約: 戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第4条約、新設)にも違反する戦争後に行われた社会破壊の犯罪だ。しかも戦後無条件降伏してから戦争政策に責任関与しなかった国民に対して行われた。とんでもない出来事だった。
時は遡り
この本における私の私的発見は、吉田茂不遇の外交官時代の終わりに近い昭和9年(3月1日 - 満州国にて帝政実施。執政溥儀が皇帝となる)
にニューヨークで** エドワード・マンデル・ハウス大佐にわざわざ再会していること。この身内の同行者和子氏の回想にあるという歴史事実 にある。もちろんパリ講和会議の牧野伸顕の父子(本当の子ではなく養子だが: 本当の父親は作家竹内明の高祖父 - 竹内綱である。)同行で大正8年1919年に面識があるとはいえ、15年も前の同行者だ。
公職としての通信の出来なかった人物間の15年を隔てた旧交の交誼確認はただの関係ではない。すでに昭和7年の515事件から2年後のことである。ハウス大佐は、4年後に他界。会うとしたら最後のタイミングだった。始まってもいない戦争の戦後プランが始まった瞬間を麻生和子さんは見たと思う。理解はできなかったかもしれないが。
尚、2年後、独身時代の和子嬢が226事件時に遭難したのは事実だが、簡単に塀が破れて、裏山に地元の救助の車がすぐに来るのは予定の事象であり、伸顕の弾除けになったというは作話と思う。わざわざ成功と勝ちの合図をした襲撃者が別荘に火をつけるなど行動に矛盾がある。標的の死体を晒すのが目的のテロリストらしく無い処置である。証拠隠滅の目的が無ければテロリストは放火などしない。こういう違和感を心に残すことが大切。
当時の日本は、前年昭和8年、1933年国際聯盟を脱退し、この年1934年、ワシントン海軍軍縮条約(1921〜22年開催、建艦制限)を破棄、1936年のロンドン海軍軍縮条約(1930年補助艦保有量の制限を定めた)失効を迎える直前であった。つまりハウス大佐に面会したこの年は事実上の日米の太平洋対決が決定的となった無条約時期直前に相当する。今でいえばイラン核合意離脱に相当する。この旧交の交誼重畳は、日米戦争を前提とした吉田茂の戦後の役割を米国側が決定した意味を持つ重要な再会だろう。
吉田茂は後の通称ヨハンセングループの中心でグルー駐日米国大使のシンパの一翼であったことは明白だった。吉田自身も*グルーは「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価している。(『回想十年』第1巻、57頁)そのグルーの友だちぶりは未開民族の調査員のような支配者視点からだったことに吉田茂が気づかぬはずはない。
*ジョセフ・グルーが派遣(1932年~開戦まで駐日大使、1948年~American Council on Japan, ACJ名誉会長)された期間。名誉的地位を得たグルーこそ極東戦後プランの立案者だったのだろう。
The real difference is in their minds. You cannot measure Japanese sense of logic by any Western yardstick. Their weapons are modern; their thinking is 2000 years out of date. "
プロパガンダではあるがグルーが世界に向けて発信した以上の言葉をもう一度CNNやBBCの好む日本異質論として噛みしめてみよう。そしてその手下として動いていた吉田茂の政治を再考してみよう。外交センスに疎い国は吉田茂やハウス大佐が言うように滅ぶ。
**エドワード・マンデル・ハウス
1858 - 1938
米国の政治家。大佐は軍の階級ではない。
元・大統領顧問。
テキサス州生まれ。
金融業などに従事後、1890年代から1900年代までテキサス州において歴代州知事の選挙事務長などを務め、「ハウス大佐」の名で知られる。’12年の大統領選ではウィルソンを支持し、以後ウィルソン政権で大統領顧問として人事、外交面で活躍。第一次世界大戦時には大統領特使として渡欧し、パリ講話会議においてもアメリカ代表団、国際連盟規約起草委員会メンバーとして活躍。