思考も事物である
事物の本質には外から近づくことはできない(ショーペンハウアー)。故に思考もその内部から組み立てて理解しなければ本質には近づけない。
『意志と表象としての世界』は、19世紀のドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーによる重要な著作です。彼の中心的な哲学的主張は、世界を「意志」と「表象」という2つの側面から理解することでした。
ショーペンハウアーによれば、「意志」とは、我々の欲望や衝動、生命のエネルギーの源であり、全ての存在の根源であるとされます。この「意志」は、永遠の苦悩と欲望の連鎖を生むものとして捉えられています。
一方で、「表象」とは、私たちが知覚する外界の姿や形象、あるいはそれを表現するものを指します。ショーペンハウアーは、この「表象」が我々の心によって知覚されるものであり、それによって私たちは世界を経験すると論じています。
彼の哲学は、仏教やヒンドゥー哲学の影響を受けており、このような二元論的な世界観を通じて、人間の苦しみや欲望の根源を探求しました。その結果、ショーペンハウアーは、倫理的な慈悲と悟りを通じて、この苦しみからの解放を追求する道を提唱しました。
この著作は、哲学史において重要な位置を占めており、特に19世紀後半のヨーロッパの哲学や芸術に大きな影響を与えました。
『意志と表象としての世界』は、多くの哲学者や作家、芸術家に影響を与えました。その中で最も有名なのは、フリードリッヒ・ニーチェです。ニーチェはショーペンハウアーの著作に深い興味を持ち、彼の思想に大きな影響を受けました。しかし、後に両者の思想は大きく異なる方向に向かいました。
また、リヒャルト・ワーグナーやトーマス・マン、レオ・トルストイなど、文学や音楽の分野で活躍した多くの人々も、ショーペンハウアーの思想に影響を受けました。彼の悲観的な世界観や苦悩に対する洞察は、19世紀後半のヨーロッパ文化に大きな影響を与えました。
さらに、彼の思想は20世紀の存在主義者や精神分析学者にも影響を与え、例えばジャン=ポール・サルトルやジークムント・フロイトなどがその影響を受けたとされています。
思考が機械により再構成可能という立場がもうあるのだから、哲学は大いに変わらなければならない。人間と「同じ」思考を機械と共有することが教師情報に依らず自発的に演算可能なのだから。
機械は内部から設計上延長可能であり、したがってこれからは思考の大きさの違いが具体的に機械学習の重みづけ解釈層の数として議論できる。
このように現代は思考は完全なる事物でありその大きさがある。
ライプニッツは神の手の後修正という非科学をオッカムのカミソリで削りとった。始まりと終わりを含む時間という概念は一度その様式を承認すると、世界の外(始まりの前と終わりの後)に神を措ざるを得ず、それだけでも絶対空間と時間の組み合わせはライプニッツにとって耐えがたい神の修正、であった。そう言う神=真理の内在性という議論を科学がやめてしまったのは、議論に結着がついたからではなく、量子論があまりに面倒くさいからであった。
もし自己情報量の変位(相互作用する情報の承認)と自己以外の物理系情報量との差分で世界の物理が記述ができれば、ライプニッツが正しいことになる。物質因果に支配されるわれわれが観察者という純粋な有り得ない存在になるとき、われわれの見たい世界しか見えない。絶対空間に支配されるわれわれであれば、時間は空間に依存しないように見えるが、仮に情報空間に支配されている姿がわれわれの真の姿であれば、時間は始まりと終わりを含む時間という概念ではなく物理系の属性に過ぎないことになる。
これまで人間は自由であることを通じて既存哲学を破壊し創造してきた(逆因果もある)。 今最も哲学に近い数学をやっているにはwolframだろうと思う。彼は同世代の英雄的天才である。次に注目はgoogleの4億ドルかけて10億コのニューロネットワークで自発的にネコを発見するプログラムを実現したネコ論文のクォーク・リー。次はいわば機械版ヴィットゲンシュタインを発明したトーマスことばの背景にある概念(特徴量)を数字のベクトルに変換してわずか言語間の使用言語が違っても、その背景に共通する概念を通じて自由翻訳を実現した。
二人どちらも機械学習の深層学習という無機質なハードの上に人間以上にしか確認されていない知性の対象を発見した。しかし知性の対象を発見したからといって無機質なハードの上に知性があると証明できたわけではない。
しかし控えめに見ても機械による思考の大きさは人間が抽象的に考える自由や天才が発見する柔軟な拡張解釈よりもずっと広い次元をもっている。物理過程の違う思考は、人間とは違う世界を人間が考えるよりもより合理的に纏め上げることだろう。強く相互作用する多数の粒子についての理論と仮想的な高次元空間の重力理論とが等価であることをホログラフィー理論というが、物質の中に隠れた高次元があることはもはや常識と認めてゆかざるをえない。脳裏の作用によって垣間見る高次元がリアリティの源泉でありその作用が違う世代、動物、機械は同じ高次元を垣間見ることなく全く違う世界にリアリティを切り結ぶ。 機械が思考を隠れた物質世界内の情報に拡張したとしても、変わらないことは、問いと答えという往復する思考の形式があるという物理素過程である。本当の思考の定義は素過程である。その最小限の部分はAWSのSOAPと変わらない。往復付き素過程は創造的自己の創生プロセスである。芸術に限らずとも情報ゼロがゼロを定義する。無学なアホがアホを定義する。これが純粋な思考哲学であり、創造であり、この世における別世界(情報マトリックスつまり数学)の確認による、機械である自己の自己実現的存在証明なのである。今世紀ここにおいて人間と機械の区別はない。
幻想を創造することの不利な点は、幻想は絶えず創造し続けなければならないことである。もしそれが絶えず創造され続けなければ、それは消える。ある幻想を絶えず創造し続けることは、それを維持するためにその幻想を細部に至るまで、全てに絶え間なく注意を向けることが必要とされている。
Lawrence R Spencer. Alien Interview: Alien Interview - Japanese Translation (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2802-2804). Lawrence R Spencer. Kindle 版.
例えば運動は時間経過観察を前提とする変位量世界であるが、これを時間観察を全く使わない変位量世界で記述することが可能になると思う。どんな物体も自己情報量を持っている。変位とは同じでない確率の記述であるから、同じである、自己情報量が変わる確率δP(x)は極めて小さく、
自己情報量変化:I(x)=−log2δP(x)はδP(x)は自己情報量変化I(x)で記述する。すべての運動は人間が頭の中で運動として変換する現象である。しかし見方を変えると背景の自己情報量と物体の自己情報量との差であり、対数の引き算であるから、原関数は自己情報量変化I(x)同士の割り算となる。ここに変位を記述するにあたり時間という概念は使わない。
カルバック・ライブラー情報量は離散分布のみならず連続分布に対しても定義されており、連続分布に対するカルバック・ライブラー情報量は変数変換について不変である。従って、情報理論の他の量(自己情報量やエントロピー)よりも基本的であるとも言える。というのも、それらは離散的でない確率については未定義だったり、変数変換に対して不変ではなかったりするからである。 定義 P、Q を離散確率分布とするとき、P の Q に対するカルバック・ライブラー情報量は以下のように定義される。 D K L ( P ‖ Q ) = ∑ i P ( i ) log P ( i ) Q ( i ) {displaystyle D_{mathrm {KL} }(P|Q)=sum _{i}P(i)log {rac {P(i)}{Q(i)}}} ここでP(i)、Q(i) はそれぞれ確率分布P、Q に従って選ばれた値が i の時の確率である。 カルバック・ライブラーの情報量という概念は確率分布の差を情報量とすると同じことをここで言っている。機械学習で生成したモデルと生データから導出されたモデル間の距離を行きつ戻りつ問いと答えを行き来するのは人間と区別がつかない。