公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「悪の起源 ーライプニッツ哲学へのウィトゲンシュタイン的理解」 黒崎宏

2017-05-08 20:28:00 | 今読んでる本

私とほぼ同じ理解によって整理されてるので自分で書いたかのように読みやすい。自分の親父と同じ世代の老哲学者の哲学逍遥は長い道のりからできている。尊敬を込めて逍遥と呼びたい作品である。これはその集大成選集となるだろう。著者自身もーおわりにーで最後の出版物と意識している。

もともと理論物理学を選んだ黒崎先生が悶々としながら出口を見つけるのがデュエム『物理理論の目的と構造』(次に読む本の候補)の英訳本に出会ってからだったと書かれている。こういう経緯も興味深い。自分は分子生物学の因果論から生命を紐解く主流にどうしても論理的誤りがあると思えてならなくて悶々として逍遥の迪を選んだ自分と重なる。

 

Wikipedia より

ピエール・デュエムは物理学理論について研究する中で、物理学的観察には実験装置についての理論などさまざまな補助仮説が必要であるため、物理学理論のみから何らかの観察予測が導き出されることはなく、したがってそうした理論が文字通りに反証されることはないことに気づいた。一見反証されたように見える仮説も、補助仮説のアド・ホックな修正で救うことができる。そうした反証が存在しないというのがデュエムのテーゼである。

デュエムはこれを物理学に特有の問題であると考えていた。また、論理的には反証が成り立たなくとも、物理学者としてのセンスがあれば、ある観察が理論を反証するような性質のものか、それとも実験装置などの不備に帰することができるものかということは分かると考えていた。これを「決定実験の不可能性」と言う。

Wikipedia より

クワインはデュエムのテーゼを大幅に拡張した。彼は論文「経験主義の2つのドグマ」の中で、信念の検証に関する全体論を主張する。それによると、われわれの信念の体系は全体としてひとつの網の目をなしていて、けっして個別に外部からの刺激(観察)と相対するということがなく、常に網の目全体として観察と向き合う。網の目から導かれる予測と観察が矛盾しても、網の目のどこかを修正すれば矛盾は解消でき、どれか特定の信念が反証されるということはない。逆に、経験による改訂の可能性を原理的に逃れている信念というものもなく、場合によっては論理学の公理なども改訂されうる。こうした全体論の帰結として、対立する二つの理論があるとき、経験によってそのどちらかが否定されるということはなく、どんな経験に対してもどんな信念でも保持しつづけることができる。これがクワインのテーゼである。

デュエムと違い、クワインはこれが物理学だけではなくすべての信念をおおう非常にグローバルなものだと考えており、しかも科学理論のよしあしについての相対主義を含意するものだと考えていたようである。

Wikipedia より

 

いまなぜライプニッツなのか?私なりにはとてもわかる気がする。アトミズム・原子論には根本的な誤りがあって、そこで私たちは観察者の立場が当たり前になっているため、観測者の干渉という限界で実証的量子論は真度を得られずに行き詰まってしまった。今日の物理学や宇宙論が粒子と波動の二重性という便宜を取り除く見えない仮想エネルギーを想定しなければならないのは何故かと言うと、私達が世界を無限に理解できるというアトミズムの延長可能性を疑わないからである。ライプニッツが述べた単子論(モナド)はビックバン*を先取りしているし、どういうわけか私の宇宙観に近い。ライプニッツは遺言のように単子論を書き上げたわけだが、主語とか述語とか完足的概念(真としてすべての述語を含む主語)とか難しく書かれているが、要は一意 unique 関数である。一意関数(演算子)で括られる完結関係全体を単子と呼んだ。だから単子は無限に区別できる関係にあるとも言えるし、逆に群としては一つであるとも言える。

後者はライプニッツの宇宙論とも言えるが、現代的なビックバン仮説に一致している、ただし現代物理学は神の最善を想定しない。これが限界を与えている理由であろうと思う。私は人格的神を認めないが、最善も最悪も無い。有りうるものが都合よく見つかった者には善であろうが、見つからなかった者には悪でもある総ての可能性が認識や存在という仮想の前に先行しているから、神の様に見ることも、煉獄と見ることもできる。

つまり、我々の世界はモナドの集合であり、究極的に長い時間を経て一つのモナド=ビックバンの結果に所属している。なぜそのように考えるかというと、過程は略すが、宇宙は一つのモナドとは私たちに内包している素粒子が織りなす量子もつれという巨大な編み物であるという物質の歴史を意味する。


このような宇宙観は南部陽一郎の相転移学説の一種対称性の自発的破れの直感の中に埋もれている。質量の説明をヒッグスが粒子としてみたことを既に1960年に『クォークのような素粒子が質量を持つようになったメカニズムは「自明の理だ」と研究を進めなかった』。相転移によりバラバラの運動が凝縮するということは、巨大な編み物が生まれると同じことである。

私たちは巨大な量子モツレの結果自然発生した巨大グラフ上計算機の計算結果の物質化の一つであって、その初期条件が一つのモナドを創っている。ライプニッツvsクラーク論争(1715--1716)に見られる時空の本質的議論はニュートン以来封印されているが、もう一度科学の世界に時空の本質的議論を開始するとしたならば、ライプニッツの予言的言説『私の言語の限界が、私の世界の限界』であるが、ライプニッツ自身の答えが示されている訳ではない、にもかかわらずライプニッツが一歩先を行っていたと感じるのは何故だろう。

直感的に時空の記憶と観測のパラメータ説の方が現代的であると思う。私は物理学は精神と統一するまでは未完成の学と考えるから、ライプニッツの精神的アプローチは突破口を与えていると考える。量子モツレに見られる物質的基盤をパラメータ時空説の基盤に発見できれば、ニュートン物理学が哲学に止揚される。

だから我々の存在は計算結果に過ぎない。その計算プリントアウト結果のパラメータ時空にインクのように貼り付いている私達がモナドを理解する唯一の方法は計算の数理=数学的理解を逆向きの創造方法の推測による実証しかない。思想が言葉によって真理に近づくことはできないことを証明したのはウィトゲンシュタインだが、真理が計算機という一つのモナドであると想定したなら、数学的に可能な事物と事象はすべて宇宙に存在可能であるといえる。もう一度言うが、私たちは見えない計算機のアウトプットにすぎない。アウトプットを時空創造と言ってもいいが、時空に限らず合理的なものは全て存在可能であるが故に我らが生き存在する。この世からそれらが消えるときは、知り得ないより高度な合理的理由により、時空を認識する我らが役割を終えて計算機に還元されるときだ。以後それを絶対死という。絶対死の到来までモナドは死なない。

*ビックバン(矛盾する観測が最近出てきている)宇宙に関する認識は未だ発展途上である。
ヘルクレス座・かんむり座グレートウォールの規模は非常に巨大である。ガンマ線バーストの分布から推定された大きさは、長さが最大で100億光年、幅が72億光年である。これは2003年に発見されたスローン・グレートウォールの13億7000万光年や、2013年1月に存在が発表されたばかりである大クエーサー群の U1.27 の40億4000万光年をはるかに上回る大きさである。これは観測可能な宇宙の10.7%に相当する。


「悪の起源 ーライプニッツ哲学へのウィトゲンシュタイン的理解」
春秋社 2017年3月25日

黒崎 宏(くろさき ひろし、1928年10月25日 - )は、日本の哲学者、成城大学名誉教授。

目次
来歴 編集

東京生まれ。1966年東京大学哲学科大学院修士課程修了。長く成城大学教授を務めた。一貫してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインについて研究し、近年は東洋思想との比較を行っている。2008年瑞宝中綬章受章。

著書 編集

科学と人間 ウィトゲンシュタイン的アプローチ 勁草書房 1977
ウィトゲンシュタインの生涯と哲学 勁草書房 1980
科学の誘惑に抗して ウィトゲンシュタイン的アプローチ 勁草書房 1987
ウィトゲンシュタインと禅 哲学書房 1987
「語り得ぬもの」に向かって ウィトゲンシュタイン的アプローチ 勁草書房 1991
言語ゲーム一元論 後期ウィトゲンシュタインの帰結 勁草書房 1997
ウィトゲンシュタインが見た世界 新曜社 2000
ウィトゲンシュタインと「独我論」 勁草書房 2002
ウィトゲンシュタインから道元へ 私説『正法眼蔵』哲学書房 2003
ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説『中論』哲学書房 2004
純粋仏教 セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える 春秋社 2005
理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から 春秋社 2007
「自己」の哲学―ウィトゲンシュタイン・鈴木大拙・西田幾多郎 春秋社 2009
啓蒙思想としての仏教 春秋社 2012
共編著 編集

科学哲学概論 永井成男共著 有信堂 1967
ウィトゲンシュタイン小事典 山本信共編 大修館書店 1987
「山本先生の思い出」『形而上学の可能性を求めて──山本信の哲学』(共著) 工作舎, 2012 ISBN 978-4-87502-447-7
翻訳 編集

自然科学の哲学 カール・G.ヘンペル 培風館 1967
精神の本性について 科学と哲学の接点 マリオ・ブンゲ 米沢克夫共訳 産業図書 1982
ウィトゲンシュタインのパラドックス 規則・私的言語・他人の心 ソール・A・クリプキ 産業図書 1983
意識と因果性 心の本性をめぐる論争 D.M.アームストロング、ノーマン・マルカム 産業図書 1986
何も隠されてはいない ヴィトゲンシュタインの自己批判 ノーマン・マルカム 産業図書 1991
哲学的探究 第1-2部 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 産業図書 1994-95
『哲学的探求』読解 ウィトゲンシュタイン 産業図書 1997
ウィトゲンシュタインと宗教 ノーマン・マルカム 法政大学出版局 1998
『論考』『青色本』読解 ウィトゲンシュタイン 産業図書 2001←これは読んだ




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