公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

四季は死期と思え

2021-04-10 07:13:00 | 日記

徒然草より
吉田兼好 徒然草 第百五十五段
四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。


四季には決まった順序がある。しかし、人の死ぬ時期は順序を待たない。死は必ずしも前からやってくるとは限らず、あらかじめ背後に迫っている。


追補2021/04/10
 
ゆたぼんさんは「中学校には行かへんけど、これからもいろんな人に会っていろんなことを学んで、いろんなことに挑戦していこうと思ってる!俺は自分だけの道に進んでこれからもブレずにまっすぐに突き進んでいくで!人の行く裏に道あり花の山。挑戦して失敗しても死ぬこと以外かすり傷や!」と今後の決意を語っている。



死ぬこと以外はかすり傷という言い回しの原典
『手術台の上でボクは、有名なアメリカのボート・レーサー、ビル・マンシーの言葉を思い出していた。「死ぬこと以外は軽傷である」 』
(ロッキー青木『人生、死ぬまで挑戦だ』1989年)これも結局は同じ死地の生を言っている。(原文ではビル・マンティーとなっている)

青木廣彰

日本の実業家


 

青木 廣彰(あおき ひろあき、1938年10月9日 - 2008年7月10日)は、日本実業家冒険家、元レスリング選手、バックギャモンプレーヤー。東京都出身。アメリカ合衆国鉄板焼きレストランチェーンBENIHANA」の創業者。通称、ロッキー青木。息子のスティーヴ・アオキディスクジョッキー(DJ)、娘のデヴォン青木モデル女優として知られる。

経歴

青木湯之助、かつの長男として中野で生まれる。青木家は江戸時代紀州徳川直参の旗本だった和歌山県士族の旧家である[要出典]。父の湯之助はかつて郷宏之の芸名で活躍していた俳優タップダンサーで、後にレストランチェーン紅花 (BENIHANA) 共同創業者となった。

1951年4月、慶應義塾中等部に入学し、1957年3月、慶應義塾高等学校卒業。慶應義塾大学経済学部在学中にはレスリング部に所属した。1959年、レスリング日本選抜で米国遠征し、そのままアメリカに残るニューヨーク市立大学シティカレッジ (CCNY)に入学し、レストラン経営学を学ぶ。

1960年、ローマ五輪の日本レスリングチーム補欠選手。1962年、ニューヨークハーレムで移動アイスクリーム屋を開き、和傘のミニチュアをアイスクリームに添えるアイディアが功を奏し成功を収める。1962年、1963年、1964年のレスリング全米選手権フリースタイルグレコローマンスタイルでそれぞれ優勝し、レスリング選手として活躍した。1964年、米国選手として東京オリンピック出場選手に選ばれるがアメリカ合衆国の市民権がなく、結局2回の五輪出場チャンスを逃すこととなる。ニューヨーク市立大学シティカレッジを卒業。

1964年、両親が既に日本橋を本店に銀座などで洋食屋「紅花」を数店舗経営していたため、両親兄弟も伴い家族も渡米し、鉄板焼きレストラン「BENIHANA OF TOKYO」第1号店をニューヨーク・マンハッタン西56丁目に開業コメディアンボードビリアンのステージアクターだった父・青木湯之助(郷宏之)のアイディアでパフォーマンスを取り入れた鉄板焼きをはじめる。珍しさも相まって多数のマスコミに取材され店は繁盛し、ヒルトンホテル会長・バロン・ヒルトンからも出店依頼が来るようになり、後に米国内80店を含む世界110店舗を展開する、一大日本食チェーンとなる「BENIHANA」の礎を築き、実業家としての成功を手にする。

1975年、バックギャモンの全米チャンピオンになる[要出典]1979年12月27日、父・青木湯之助死去。1980年、パワーボート世界大会で2位になる[要出典]

1982年、4人乗り気球「ダブルイーグルV」での太平洋横断を行う。また、ニューヨーク倫理友の会会長を務めた。ビジネス成功本を多数執筆したり、ネットワークビジネス宣伝本等を翻訳した。

1999年、インサイダー取引で不正な利益を得たとして罰金50万ドル、保護観察3年の有罪判決を受け、ナスダックに上場する「BENIHANA」会長の座を辞任する。

William Edward (Bill) Muncey

Hydroplane Racer

Won 8 Gold Cups  
Won 7 US National Championships 
Won 4 World Championships 
International Motorsports Hall of Fame
Motorsports Hall of Fame of America

William Edward Muncey (November 12, 1928 – October 18, 1981) was an American hydroplane racing legend from DetroitMichigan. The International Motorsports Hall of Fame and hydroplane historian Dan Cowie described Muncey as "without question, the greatest hydroplane racer in history."[1] Muncey was nicknamed "Mr. Unlimited" and won 62 races, which was the most races in the history of the sport until Dave Villwock broke his record in 2011.[1][2][3]

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