冲方丁さんの「天地明察」を読みました。主人公は江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家という渋川春海(安井算哲)という実在の人物です。彼は碁をもって徳川家に仕える”四家”の一員、お城の碁打ち衆であった。例年11月、本因坊、林、井上、安井の名を持つ者たちのみに許された御城碁を、彼らは将軍様の前で打つ。それは各家に伝わる棋譜の上覧の場であった。彼は12歳で将軍家綱の御前で碁を打つ公務を務めた。13歳で父が亡くなると父の名、安井算哲をついだが、彼が生まれる前に養子として迎えられていた安井算知が義兄として存在していた。算知の働きは申し分なく、会津藩主、保科正之の碁の相手として会津藩に召し抱えられていた。そのため、春海(算哲)が江戸滞在中は、会津藩邸に滞在するのだった。そういった事情から春海は、わざと一字を変えた保井にしたり、公務でないときは、渋川春海を名乗ったりしていた。実のところ、春海は碁以外にもっと熱意を持っていたものがあり、それは、算術と天文であった。春海が22歳の頃、宮益坂の金王八幡神社に奉納された多くの算術絵馬に、たちどころに解答した男がいた。彼の名は関。磯村道場にもときおり関は現れ、壁に貼られた難問に次々に解答を書き入れ、それがすべて明察(正解)であるという。男の名は関孝和。春海は関に非常に興味をいだき、また対抗心から関に自ら出題したのであるが、関からの答えはなかった。ただ、無術(解答不能)と書こうをして、やめた跡のみが見られた。春海の遺題が病題だったのだ。その直後、春海は幕命により、日本各地の緯度を北極星を使って計測するよう(北極出地)命ぜられ、伊藤、建部らとチームを組んでの長旅に出た。或る晩、4分半の月蝕が観測された。伊藤、建部の両名は、日本各地で買い求めた暦に照らすが、どれも月蝕をただしく予測できていないことを春海に教え、基になる宣明暦に狂いが生じているというのだった。改暦の必要があることを春海はそこで知るのだったが、それが生涯をかけて改暦をめざす春海の闘いの幕開けになった。後年、同時代を生きた和算の天才、関孝和から改暦にあたり、学術面の協力が得られたのが史実ならば素晴らしいことだと思いました。また、囲碁界の天才、本因坊道策も同時代の人物で、春海に勝負碁を真剣に挑んでいた様子も面白く、多士済々の江戸時代だったのだと思いました。エキサイティングな話でした。お薦めです。
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