老いてなお 生き生きと しなやかに しっとりと

老いても老いずの風情で、しかしその歳らしく、しっとりとした趣を醸しだせる女性でありたい。後期高齢者の仲間入りを受け入れて

お参りして考えた

2020-10-05 13:23:24 | 思うこと

10月10日は夫の14回忌。

その日は都合がつかないかもしれないので3日にお参りに行った。

今は息子さんが寺に戻ってきていて、親子二人で朝事が行われた。それ以前は副住職が外から来て勤務しておられた。

なので、朝事が終わって年忌の法要をする人はお供えをして、副住職に阿弥陀経をあげてもらっていた。

 

ところが昨年は、住職であるお父さんが一人で朝事を行われた。その時は既に、寺の息子さんが戻ってきたので副住職さんは辞められたとは耳にしていた。

朝事の後、住職さんはお供えを受け取っても、読経する気配はなく、お説教とも言えない話をされた。

私は大いに不満だった。不満を持ちながら帰ったのだった。

 

すると今年は、親子二人で朝事の正信偈をあげた後、息子さんがお供えをお盆に受け取り、お説教の台に立ち、話を始めた。自分の娘の話などをして、お仏壇の前の諸道具の並べ方など話されたが、そのとき、通常の法要は朝事で良いと、良いと言うかそれで終わりだった。

では、我々は朝事に出ればそれでいいのか。

お供えは頂くが読経はしないということである。

随分と変わったものである。

こんなことでは、お寺にはますます足が向かなくなる。大体この寺は、この街に転入した時、お寺はこちらが近いからと、この寺の門徒として入れてもらったのだった。このとき、寺は改修して間もない時だったので、門徒は負担金を出しているので、あなたからも5万円もらえと役員が言っているとのことで、その支払いもしたのだった。

今になれば、実家の近くに法事をしたいときだけ何時でも行ける、決まった門徒を持たないで運営しているお寺があるので、其処にお願いすればよかったと思う。

そこは、母の法要で行くが、実に丁寧に読経してくださる。わが身の心の落ち着きがいい。ホッと安堵する。いつ行っても参詣人が多い。

私・勿忘草で我が家は終わる。受け継ぐ人もない。だからお寺も私までだ。今のお寺は出ようかなと思ったりしている。

そんなことを、考えて寝付けない夜を過ごしている。

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ではまた、お会いしましょう

 

コメント
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