23日、冠嶽園から駅前に戻り、そこから薩摩藩英国留学生記念館に向かった。
くるくるMOMIJIバスの時間に合わせて来てくれて、無料で送り迎えをすると言う。
鹿児島市内からの人と二人で乗りこんだ。海岸伝いに進む車中ではドライバーさんが海の向こうに見える薩摩半島の説明をしてくれた。あの山が野間岳ですよ なんて聞くと、地元にいても、「あの辺が、そうか」と地図を脳内に浮かべて見比べた。
到着すると記念館の方が傘をさしかけてくれた。お礼を言いつつ中に入る。
動乱の幕末、薩英戦争が終わって2年後、薩摩藩から留学生は、この記念館のある岩場から小舟に乗り沖に停泊していた船に乗り換え香港へ向かった。
鎖国していた時代なので藩命ではあるが、名前も替え沖に有る甑島に行くことにして出て行った。19名の中にはわずか13歳の人もいて後にアメリカにわたりワイナリーを経営しブドウ王と言われた。この人が長澤鼎である。
森有礼、寺島宗徳、五代友厚、村橋久成、よく勉強しなかった私でも解る人たちが出てくる。
因みに、鹿児島中央駅の駅前広場には、この19名の銅像が建てられてある。岩場から小舟で出て、沖合に待っていたのはグラバーの船だったそうだ。グラバーさんって長崎のグラバー邸で聞いている、あのグラバーさんなんですって。
其処から4日目には香港についたそうで、明るい街に驚いたでしょうよ。
65日間でロンドンについたそうなので、意外と早かったのねと思うことだった。
こんな話を、ズッと付きっ切りで説明してくれる方がいて、ありがたいことだった。
何時になるか分からないが、また出かけたいと思う。
ではまた、お会いしましょう
冠嶽園の記事から、徐福伝説?各地にあるようですね。
三重との県境の新宮市に徐福の墓とされる所があります。
三重の海岸に、ここに船を着けたとされるところがありましたし、
長澤鼎は、帰国することが無かったのでしょうか?
13歳と言う年齢で、送り出す親の心情を思いました。
こういう伝説はあちこちに有るのでしょうね。墓がありますか。
徐福の像がありますが、どうやって顔を考えたのでしょうかと思ったりもしまして、
夢のない、冷めた私です。
13歳で船出しましたが、密航ですから、藩命ではあってももし捕まったら、藩は知らんぷりだったでしょう。
その証拠に、皆名前も変えて行っています。
親は、甑島に行ったと思っていた(いつ頃までかわかりません)筈です。
親も子もつらいですね。
気風として 外を見ていたのでしょう
土佐藩と言い、 意識が 違います
親たちも 今生の別れを覚悟したのでしょうね
いやぁ 親も 気づかぬ間に 青年(少年)は 決行したのかもしれませんね
その3年後 堺では フランス、英国と土佐藩を巻き込んで 悲惨な事件が あったそうです
一旦断った人もいたそうですが、最終的には行ったそうです。
それでも、断り抜いた人もいたと聞きました。
でも、凄い文化の違いを感じつつ順応して洋服を着、髪を切り落とした写真など見ますと、人間ってすぐそれが出来るのですね。感心します。
香港から先はVIP待遇だったそうです。
鹿児島には友人とか婿の実家とかがあり、馴染みがありますが、この話は知りませんでした。教えてくださり、ありがとうございました。
夫の里ですが数回しか行っていませんが
読みながら景色を心で追っていました。
是非訪ねて観たい薩摩藩英国留学生記念館です。
もう行けないかな。
幕末から明治の時代は、薩摩の人は活躍したと思います。
19人については、一人ひとり書きたいくらいですが、
それほど詳しくないので、また、私も勉強に行きたいです。
おいでいただきありがとうございます。
一度、お出かけなさいませんか、
鹿児島は良いところです、と勝手に思っています。
どうぞ薩摩藩英国留学生記念館もお尋ねください。