いろんな所に行ってみる。
そんなことで気になっていた所があります。
尼崎寺町。車中からちら見するとお寺が軒を並べているのがわかります。
しかし、近いところはいつでも行ける → なかなか行かない ですね。
路上は整然としていて気持ちよいものです。
道路の右左でお寺の空間と完全な住環境が分離向き合っています。
(ともに如来院・・・だと思います)
写り込みの高層住宅や電柱もここが一般の”住”の環境であることを伝えます。
どこからともなく、”カン”というか”コツ”というか風鐸の音がしてきます。
多宝塔か三重塔からだと思いますが、音が反射しているのか方向性はわかりません。
装飾でなく、音を出すという実用になっているのを見るのは初めての気がします。
こんな街中にしっかり木造の立派な建築群。江戸期の”都市計画”により、集中された言わば”寺院団地”だそうです。
新しいのもあります。阪神大震災で被災して再建となったようです。
(長遠寺:じょうおんじ)
境内へは門を開放しているところが多いですが、閉ざしているところもあります。人を信用しながらもやはり不用心ということもありますよね。
手入れの行き届いた境内ですが、人気はありません。
静けさはお寺にとって重要な要素かもしれませんが、花が咲いているわけじゃなし、見栄えする庭があるわけじゃなしとなると・・静けさというより人を遠ざけているようにさえ感じます。
そんな中でもお邪魔していきます。
蓑に見えないこともありませんが、尾羽もあるようだし、嘴もあるようです。
するとこれは迦楼羅? 金翅鳥、ガルーダなどとも呼ばれる神さんですね。
千手観音眷属として三十三間堂あたりで造象を見ることはありますが、こんな身近でうれしい感じです。
なにか中国の古い宮殿のような感じです。屋根の形状が面白いです。
(甘露寺)
金閣のような鳥(鳳凰)が上がっています。
袴腰付きの立派な鐘楼です。
(本興寺)
かなり大きなお堂です。鬼瓦の大きさが実感できます。このお寺は本山になっているそうです。
佐々成政の墓碑があります。本物は本堂内に安置してあってこれはレプリカだそうです。
(法園寺:ほうおんじ)
説明書きに切腹した折、自分の臓腑を秀吉の在する大阪城の方向に投げつけたということが書いてあります。
佐々成政は、最後まで織田家に忠誠を尽くした人物だと言われています。秀吉の対抗勢力となる家康が秀吉織田抗争(小牧長久手)から引いてしまったため再挙を説得するため決死のさらさら越えをしています。
さらさら越えとは、富山から極寒のアルプスを越えて浜松を目指し、成功したというものですね。並大抵のことではなかったでしょう。(行程は成功、目的は果たせず。)
その後、肥後に領土を与えられていますが、地方勢力の反乱を起こされ、その責任をもって切腹という沙汰です。
秀吉には成政の性格からして肥後の経営は失敗するという確信があったという疑惑があるそうです。
”チキショー、はめやがったナー”という私怨もあったかもしれないし、”これで秀吉の天下、織田家無念”ということがあってのことでしょうか。
成政、そんな狭量では無いでしょう。はめやがって説なら後世の作話、織田無念説なら実話かなと思ってしまいます。
尼崎の寺町は全体としての景観はすばらしいですが、個々の寺院を何度も見て歩くのはどうかなと思います。
もっと近ければ、散歩として再訪もしたいとは思いますが・・・
一方でわずかに離れた三和商店街、こちらは超俗世、アジア的混沌といった感じの雑踏ですね。
ひまそうに写ってしまいましたが、自転車が押せないくらい往来も多く、売り子の声もにぎやかです。
今年は日本一早い「阪神のマジック点灯」は、震災の関係で中止だそうです。やればいいのに・・・
スーパーで桃太郎1かご198円(5個入っていました)を求めて帰ります。さー、冷やしトマトでいっぱい・・・
尼崎寺町