思いついた文章をさっと開いてパッとメモ…2008年に初代機が発売されて以来各所から絶大な支持を誇るデジタルメモツール、『ポメラ』(キングジム開発製造販売)。
文字入力専用と思い切ったコンセプトながら日常動作に優れており、バッテリー長持ち、開いて即起動、使いやすい日本語入力ATOK搭載、キータッチもメカ的に快適、黒バックに白文字にもできる。
…ヒットするのもうなづける、非常に練り込まれた商品だと思います。
さて我がペンタクラスタキーボードもデバイスとしての位置づけやユーザー層や使用シーンの想定など外的環境への目配りをしっかりしなければなりません。
当然冒頭で紹介したポメラからくるインスピレーションもあるかとは思いますがここまで割り切った作りには到底追いつけそうもないので、拙案なりの独自の道を切り開いていくしかありません。
ペンタクラスタキーボードはとにかくデカいので、ノートPCみたいに液晶開閉のブック型に収めるのは難しいので、タブレット+スタンド+キーボードみたいな形にどうやら落ち着きます。
要は、マウス+キーボードのインターフェイスを捨てずに、画面はタブレットPCみたいにスタンドアロンでも動作する…といった具合でなにやら面妖なシロモノではあるのですが、
現時点でも存在する取り外しもできるタブレット一体型PCとよく似た構成ではあるのですが、既存型のマルチ/分離タイプとは味付けが少々異なり、ビューアorマウス依存というべきなのか何だかよくわかりませんが主従関係が色濃く出ており、タブレットとしては検索窓に入力するぐらいはできるものの基本的にはWeb閲覧/メディアビューアとしての[見る]に重きを置いております。
他方、文章入力とマウス使いのWeb閲覧(コピペやページ検索)は通常の[見る]だけの行為とは一段別ものとして扱い、これを通時の使い方としてマウス複合オペレーションを[主]に置いたウエートのあるデバイス(キーボード稼働)が最適形なのかな、と思っております。
無論、問題はあります。
バッテリの問題、実質2デバイスであること、タブレット使用時の日本語入力はペンタクラスタキーボードの良さを生かし切れていないそっ気のないプレーンな変換システムとして併存させるのはそれだけのためにあるのはもったいない、起動の早さは望めそうもない、等々…。
普通なら中途半端に欲張ってて割り切りもない筋の悪いコンセプト。
コスト度外視のガジェット道楽ふぜいになりそうなシロモノ。
こんな立ち位置、市場として成り立つわけがない、などのお叱りを受けそうですが
やれ執筆だ創作だと肩ひじ張ったニーズのその手前に、数多の潜在マジョリティである、ものぐさ/無精/怠け者のニーズに応えるスタイルもあっていいのではないかと…。
ネットを徘徊しながらちょこちょことメモメモしたり→後でそれを切り貼りして適宜加筆してテキストを作り上げる、作業っていうのも発信型ではなくて蓄積型の人にはよく見られる使い方だと思うのです。
インプットの多い時代に情報の断捨離も求められる昨今ですが、溢れくる情報も捨てられない…そんな人たちへの受け皿となってくれるはずです。
先程のポメラは単体で成り立っている自己完結した製品であるところも特筆すべきところであります。
なにしろストアとかアプリだとか余計な事を考えなくて済むのがいいです。(最新機種ではiPhoneとの連携や無線LAN搭載などもありますが)
ペンタクラスタキーボードにおいてもあれこれ盛り込んで欲張ってしまうとエコシステムの構築・管理に多大な労力を割かれてしまうので、サードパーティを広く招き入れての"プラットフォーム志向"ではなく、
単なる道具に徹する"ツール志向"を貫いて、言い方はアレですけれど中央集権的に、ミニマリスト的に覚悟をもって処すことが肝要ではないかと思います。
この立ち位置を表すとしてもPC/スマホ/タブレットそれぞれの役割に収まりきれるものではなくあえて名前を付けるなら「ポメラセグメント」あるいは
メディアビューア、Web閲覧も織り交ぜてのペンタクラスタキーボードの有り様をより切り取る言葉として「ゾーシ(草子・ZOSI)デバイス」なるものを提唱したいと思います。
既成概念を打破するにはまず名づけから…ということで付けたこの概念ですが、拙ブログでは時々トンチンカンな事を言ってしまうのが悪い癖でして申し訳ありません。
ですがこの「草子」という言葉は娯楽的な書物という意味もあり、カジュアルなニュアンスももちつつ「絵草子」などのようにテキスト以外のメディアビューアのイメージの広がりにもピッタリだと思うのですが、どうでしょうか?
草稿・草案・起草といったドラフトの作成過程で使われる「草」の一文字を使うことにも大きな喚起力があります。
単体での読み方は「そうし」ですが、あえての意味を持たせるための際立たせの用をもたせるために「ZOSIゾーシ・デバイス」としてみれば、なにやら先進的でカッコいいものに見えてくるからなんだか不思議です。
こういった言葉は車輪の再発明というかすでに同様の概念があるかもしれませんがペンタクラスタキーボード界隈としましてはこの用語を使いたいと思います。
これは言語においても多分に当てはまります。日常の頻出事項はきめ細かく要素が生まれ、そうでないものは面倒をもって何かの複合的な概念としてなんとか言い表して事を済ませます。
日本語においては梅雨、時雨、五月雨、小糠雨(こぬかあめ)など雨に関する語彙が充実しているのと同様に
英語だとcattle(集合的に畜牛)、cow(雌牛・乳牛)、bull(雄牛)、ox(去勢された雄牛)、calf(子牛)、beef(牛肉)など畜産系の語彙が発達しています。
逆に自国の語彙にないものはひと単語では言い表すことができず、既存語の組み合わせによってあらわすことになります。
これは世界の切り取り方そのものです。切り取り方ひとつで世界の見え方が変わって見えてそこの語彙背景を匂わせながら陳述に動きやムードを纏わせることができます。
話は変わってペンタクラスタキーボードの世界の切り取り方はどうでしょうか。
「でにをは別口入力」によって助詞の境界はハッキリしたおかげで無用なセパレート変換候補は排除されて選択肢が絞られてよりシンプルな世界を目指した、とも言えます。
その一方で助詞でも非助詞であっても統一的にまな板にのっけられることのできた形態素解析のプロセスに余計な分断をもちこんでしまいむしろ事態を複雑化させてしまっているというのも見方によっては真実です。
こういった何に力点を置くか、それによって変わってくる世界の捉え方は「業務プロセスの粒度」であるとか「サービスの粒度」といった形で分解能のきめ細やかさの度合いをこう呼ぶビジネス用語が定着してきておりますが、私流のアレンジを加えると尺度にこだわらずスタイルそのもののありかたをふわっと描いた言葉として、
「粒様」(りゅうよう)といった造語も同じく使っていきたいと思います。
粒度を枝の例えに言い換えることもできます。枝の分岐が2~3又に分かれるのか、多数の枝に一気に分岐するのかという数量的な要素ももちろんありますしもっとイメージで伝えるとしたなら曲がりくねった枝ぶりであるとか峻厳な佇まいの枝ぶりもあるでしょうし、こういった「味」を解釈するうえでは「粒様」のほうが抽象的でより察しがつくというものでしょう。
「井の中の蛙大海を知らず しかし空の深さを知る」という改変ことわざも、一見負けず嫌いのやせ我慢からでた感が見え隠れする表現ではありますがこれもある意味では粒度の幅を絞ってその一方で「空」という深いレイヤーへのリーチはいつでもアクセス可能!…みたいな「選択の潔さ」からくる新たな地平の可能性に気づかせてくれる素敵な表現だと思います。
これとは対極に
「天網恢恢疎にして漏らさず」というのもぼんやりと目に見えないくらいのゆるい網、これは可算数個の粒度では説明しきれず不定数の粒度の概念を持ち込むかのごとくでありますがそのたどり着く先は「すべて漏らさぬ包囲網」であってここにいろんな神秘の明知が詰まっています。
これら二つの例も「粒度の運用法」という共通の眼差しから見たら統一的に説明のつくまな板の問題と捉えることができます。
ここで冒頭のタイトル「視野を広く持つ」ではなく「構えを洗練させてみる」の方がしっくりくる…に立ち返って思いを巡らせてみたいと思います。
粒度・粒様にいろんなパラメータを投げかけることで私たちはさまざまな世界の捉え方を描出できる術を手にしてはいますがそれだけでは世界の全てを知った事にはなりません。
私たちは俯瞰的なポジションにいるとつい錯覚して画一的な操作概念でアクセス可能な事象しかないと思い込んでいますがそんな保証はどこにもありません。
すべてが等価だとしたら先程の言語の例になりますが語彙も文法のなんでもMIXのちゃんぽん言語が効率化を目指した先の最終帰結となるわけですが、実際にはそんなふうにはならないのです。(今のところですが)
「視野を広く持つ」「価値観の多様化」といった言説には何か確固たる軸を持てない、大きな物語を持たない現代人の大いなる悩みから来た苦し紛れのぼやけた表現なのかもしれません。
特に「視野を広く持つ」というのは当世コレクター気質の現代人からすれば、カタログ集め、モンスター集めの営みでしかなくてコンプリート自体が目的化された書庫としての多様性しか意味しておらず奥行きに乏しいものであります。
「知っていれば」「持っていれば」それで終わり、の「そんな人もいるよね」程度の他人事のような世界観です。
このような有様では果たして「本当に知った」ことにはならないのです。
ネット情報に耽溺している私も、ついこんなことにはなっていてはしまいか、大いに自戒したいところです。もっと文脈も汲み取らねば…。
長々と書いてしまいましたが、大事なのは「視野」というスケールの問題ではなく、「構え」というルール/体系を自覚しながら行う営みのほうにより真髄があるのではないか、ということです。
なのでペンタクラスタキーボードのコンセプトもイロモノ扱い、変わり種扱いという辺縁のバリエーションと捉えてしまわれるのではなくなぜ(日アルファベット完全分離・でにをは別口入力・三属性の変換)このような「構え」をもつようになったか、その背景を噛みしめてもらいたいのです。
分かりにくい例えで恐縮なのですが「認知モアレを起こさない」ということも大事です。
「モアレ」とは、二つの規則的な模様が重なった際に起こる幾何学的な干渉縞のことでありますが、これをペンタクラスタキーボードの議論に当てはめると、品詞体系の整合性はどうするのか、変換アルゴリズムは最小コスト法みたいに助詞部分もスコア付けするのか
…みたいな従来線上の議論も当然出てくるかと思われますが、これは十分注意深く行わなければいけない、ということです。
わたくし当方といたしましては、そういった技術的なところで検証されることは喜ばしい事ではありますが、今までの確立された知見をもとにしてだけで話を進めてしまうと私の拙論ではあれがまずい、これがまずい、と厳しいダメ出しを食らうこともあるかとは思います。
ですがもう少しあたたかな立場でご検討をいただきたいということであります。
「構え」が違う以上、お馴染みの議論要素、論点であっても自己導出的な「常識の確認」に終始しているばかりでは何も建設的ではありません。「構えの中の『部分』」の話ですからわれわれは額面通りの論拠で斬るということはできずに、文脈ごと意味するところを論じなけれならないのです。
従来の日本語入力(①)と、ペンタクラスタキーボードの日本語入力(②)についてと、ほぼ同じような技術トピックをあたっているようなときであってもその背景の文脈の違いによって取り扱いを別ものとして扱う方が適切である場合もあるかもしれません。
評論の視点は、その時すでに「広い視野」の俯瞰視点に立っているとの前提でおこなわれますが、実際それが適格なものであるかどうかはふたを開けてみるまで分かりません。
「従来」の線上に①と②を載っけようとするから認識の齟齬=認知モアレが起きてしまうことになるので①②を「別の世界で起こった事象」と捉えて認識形を一から構築せねばなりません。別の世界で起こっている以上、当然物理法則も違うものなのです。
ほとんど抽象的な事ばかりであまり具体的な事には触れられなかったのですいません。
なにぶん模索中の身で自分の言いたいことすらわからない状態でありますのでご容赦頂きたいところなのですが、ここで語った思いのいくばくかが、今後具体的なところが見えてきたときにいつか羅針盤の役割になることができれば満足な事と思います。
今はとりとめもなく筆の進むまま思いの丈を書き連ねていったところであります。お付き合いありがとうございました。
しかもコンセプトを説明していく体においては当然のように~になります、~であるから…などの断定口調を用いておりいささか不誠実であるかもしれませんがコンセプトの筋を際立たせたいがために精一杯背伸びをしてこのような言い口になっていることをどうかご理解いただきたいと思います。
もちろん根本的なことで技術的な誤解があれば早急に訂正したいと思っておりますし、プログラミングに関して微に入り細に入った解説は自重したい…もとい話しようがないのであまり深入りはしないように努めております。
ただこうしたインターフェイスがいい、こんなデータでやりとりすればいい、などの使い勝手に関して色々と想像していくことは決して安易な考え方からきているのではなく、ユーザーの利便性の向上に真剣に向き合ってのことだと認識していただきたいと思います。
こんなブログ主ぴとてつではありますが、ペンタクラスタキーボードのコンセプトを現実に実装・製造も含めた「開発」プロセスとして実行していくのは今の段階では非現実的だとは重々自覚しております。
たとえ私じゃない誰か優秀な人がいたからといってこのような広範にわたるコンセプトを「個人レベルで」実現できる人物はどこにもいないでしょう。
このような状況では頼みになるのはひとえにコンセプトがどれだけ練られているか?の完成度に懸かっているのだと思います。
まるで夢想のように思われる方もおられるかもしれませんが力強いコンセプトやビジョンには現実の事業を引っぱりだす力が備わっていると思うのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプターのように優れた洞察から生まれた空想の産物は、たとえそのままの形で実現しなかったとしても確かにその後の機構装置開発に多くのインスピレーションを与えています。
現代の流体力学・航空力学の知識のある人から見ればこんなの飛ぶわけがない、と一蹴されてしまうこのアイデアですが、この500年以上も前に描かれた一つのスケッチがこうして時を経て現代に花開くなんてロマンあふれる話ではないでしょうか。そこには普遍的な「原形」のもつ価値が宿っていたことを物語っているのだと思うのです。
つまりアイデアが大事なのです。ペンタクラスタキーボードの基本コンセプトには「かなとアルファベットの完全分離」「でにをは別口入力」「三属性の変換」の3つが謳ってありますが、この要件を満たすものなら何もぴとてつの考案した多少運指に難のある、筋の悪いキーボードのカタチにはこだわらずとも何か同等の機能のある別の機構で実現されても良いのです。
コンセプトのもつ力が人を動かし、その時代の要請する機能基準を満たすカタチにいくらでも変化をしつつ具現化されていったとしても、原形のもつ価値は揺るがないものです。
あくまでも想像ですがこのペンタクラスタキーボードの製品としての形態は何かタブレット端末みたいなものに付属する形になるのか、あるいはデスクトップパソコンのメインキーボードとして独立したものになるのか、さらにはノートパソコン単体の中で組み込まれていくのかは現時点では全くわかりません。
何が最適な形態としてどう完結していくのかは未来の話として任せるにしても、コンセプトの原形のアイデアル(理想形)なものが具体化を推進する源泉となって人々が「使ってみたい」という関心を惹くためのきっかけになると思うのです。
何かまるでこのコンセプトが実現化されて、やれ事業化されたらこうなる…やれ製品形態はこうなる…などとさも現実のように書いてはおりますが、実現を信じずに夢見るものなどいません。ブログ主ぴとてつは至って本気です。
人間の想像力が、現実の科学技術の制約に後れをとっては情けない話です。想像の力は型にはめられてしまうことなく、つねに現実に先行していなければなりません。
ペンタクラスタキーボードのコンセプトも今後どう転がっていくのかまだわかりませんが、技術の最前線をいく方たちにとって少しでも示唆を与えられるものであってほしいと思います。
2chのとあるスレッドで
609:04/13(水) 02:50 pLPiKaDd0
動詞変換と名詞変換をわけて変換できるようにすれば日本語もっと楽になるのに
……というレスを見つけたときはやっぱりこう考える人がいたんだ、と合点がいったものです。
誤変換の看過できないようなタイプ、想定している誤変換の斜め上を行く、品詞すら違う誤変換に出くわしたときの違和感を何とか解決できないかという思いには切実なものがあります。
また、前回のDVDレビューで日本初のワードプロセッサー機器JW-10について調べているうちに気づいたのですがこのマシンのキーボードに「固有名詞キー」というキーが盤面左手前に配置してあるのを見つけました。
こちらのケースはメモリリソース的な事情からで、固有名詞は無数にあるため全てを辞書に持つことは不可能であり、頻度の高い普通名詞と同じ辞書にすると、頻度の小さな固有名詞のために大きな辞書を引くことになり処理時間が増大してしまうという問題によるものです。
結局これらは複数の変換器を用いて文節分析をおこなう中で機能して、通常文節と固有名詞文節とは入力時にオペレータが区別して入力する方式となっています。
当時のマシン性能の事情とはいえこのように一筋縄ではいかない問題をアドホックに解決するというスタイルは技術の延長性という観点から決して好ましものとは言えませんが現に市場に投入する商品のパッケージとしてはこのような諸事情を織り込んだモノに落ち着いたというのは十分に理解できます。
こうして日本語入力の創成期にも先人たちが手探りながらも行き着いた答え――結果的に、「固有名詞キーで変換」というアイデアはもうとっくにあったことがわかりました。
アドホックというと目的達成の手段として有用かとも思うのですが「特定の目的のための」「その場しのぎの」という意味をもつため決してポジティブな意味ではありません。
ならペンタクラスタキーボードの三属性変換も結局はアドホックな解決策の最たるものであると言えなくもないですが、このコンセプトはアドホックどころかこれらを拡大・展開して一大体系まで押し上げようと目論んでおり三属性キーも限定的・付属物的な扱いなどにとどまらずむしろメインイシューとして論を立てているのですから立場の違いは大きいと言わざるを得ません。
しかし少し考えてみればわかるのですが変換エンジンを鍛える・機械学習をさせる際には読みが振られたテキストを与えればよいのですがこの論でいくと静的プロセスでのデータのやりとりというものから甚だ逸脱しているのでせっかくの巨大なデータをかな漢字変換器のブラッシュアップに生かすことができません。
それに三属性に分けると言っても従来の品詞体系と呼応させづらい問題はどうするか、いまだに解決の目途が立っていないのです。なにしろ大雑把に3つ(+通常変換)に語句のカテゴリを分類してしまおうというのですから少々乱暴な話ではあります。
ルール・データ・メンテナンスの評価を客観的・定量的におこなう見地からみてもその都度ユーザーが関与する不測の要素の介入は定型的なデータ処理にそぐわないということから敬遠されるのだと思われます。
そんな問題を抱えつつも言葉の意味属性・文法的機能に着目し三属性にわけて同音異義語の困難を解決しようとする試みは検討の価値がありただの雑論として斬り捨てるにしては惜しいものがあります。
その理由は人間と機械との絡み合う相互作用を俯瞰して捉えた人間-機械系という一つのシステムとしての視点です。
単に機械にデータを与えた・流し込んだうえでの変換は単に機械系と位置づけられますが、人間側の関与、しかも変換キーを押して一括で変換するプロセスの完了以前のユーザーとの密なやりとりから生まれる動的な決定性は、変換文確定までに幾多のメタ情報を随時盛り込んで役立てることで可能になるのです。
でにをは別口入力のはたらきもそうです。形態素解析の足を引っ張る助詞まわりの弁別から解放され構文解析、係り受け解析などの文法的・意味的分析により注力できるようになることは日本語入力の思考世界にも新たな地平を切り開く呼び水となると思います。
さらにはネットにある情報とのリアルタイムなやりとりを念頭に置いたポスト人間-機械系なども考えられますし現に一部では実現されています。これらの「系」の視点変換の恩恵を十二分に活かした設計というのは末端的なユーザーインターフェースではある程度考慮されているにしても、変換プロセスの根幹から意図的に構築した類のものは未だ聞いた事がありません。
それらはエージェントと対話的にやり取りするインターフェイスというよりはむしろ認知・思考過程も範疇に入れたうえでの「身体の拡張」と言った方がいいのかもしれません。でにをはマーキングや三属性の取りさばきといったアクションは言語活動における身体的所作と言い表すことができ、機械が行う各種の言語処理や画面への反映の状況とまさに一体となって一挙一動しているのです。
応答的なエージェントというのは人間と機械との間にある種の距離感を生みますがコンピュータの深層ににあるデータ処理・判断の核心的なレイヤーにまで入り込んで意図を反映させる営みはまさに人機一体と呼べるものです。
ただそれらを実現させるためにはユーザーの側にもIME動作への全般的な理解が求められることになります。ペンタクラスタキーボードというのはなぜこんなややこしい事をして入力しなければならないのかというユーザーの疑問に答えて、わかりやすい誤変換の例などを提示してその回避策の有効性をひとつひとつ丁寧に説明していくことがブログ主ぴとてつに与えられた大事な使命だということを自覚していきたいなと思っています。
ですから真っ当な技術的知識にもとづいて一本筋の通った論説を展開できないのが己の力不足を痛感して歯がゆいのですが、ペンタクラスタキーボードのコンセプト自体の広がりがデバイス的なところからIME・自然言語処理のフィールドであったり日本語の文法的な面からの考察も必要になってくるなどさまざま広範にわたるのでこれらを有機的に俯瞰する視点もまた重要になってくるかと思います。
できることは限られていますがなにぶん多岐にわたるような提案なので新たなコンセプトの全体像を示していくことを意識しつつ今後も考察・解説に注力していきたいと思います。
ブログ主ぴとてつはただの好事家とありますがこのようなブログを開設した割には力量不足というのがありこのコンセプトの趣旨を破綻なく紹介できているか自信が持てないのですが、アイデアの核である[かな・アルファベット完全分離のキー入力、でにをは別口入力、三属性の変換]のパッケージをまがりなりにも示すことができたのでそれ以上は多くを望まず後の説明はオマケなんだというくらいの気持ちで書き続けていこうかと思っています。
しかし書いているうちに技術的・専門的な領域に触れることも避けては通れないですし文法的見地からの検証も欠かせません。できる範囲で調べられることは調べていきたいですが自らを専門家だと称して不見識を振りまくのは適当でないと考えるので考えを述べるに当たっての自分の立ち位置というのをはっきりさせる必要性が生じてくると思います。
自分にはこうして確固たる「伝えたいもの」があり現代ではネットの恩恵で沢山の人たちに届けるということが当たり前のようにできる時代だからこそベストな伝達方法を模索していくことが求められていますし、思わぬ角度から個人としてアイデアを出せる環境ではコミットする役割というかスタイルもその当人なりの向かい方があるのだと思うのです。
そうやって考えた結果、以下のものがこのブログを綴っていくうえでのスタンスであると定義したいと思います。
<発信者としての立ち位置>
・創作者として
・モノ言う顧客として
・日本語入力の啓発者として
最初の創作者としてというのはこのブログで提案しているペンタクラスタキーボードというものが五角形キー(クラスタキー)のメカニカルな機構も実在しているわけではないのにもかかわらず、仮に実現していればの前提で話を進めていることをはじめとして、三属性変換を用いないときの通常変換の動作は適宜プレーンに変換しことさらに属性イ(名詞)や属性ハ(接辞のつく形)の語句をとりあげないような穏当な変換結果を返すものとするなど具体的な説明を伴わないまま結論ありきで根拠に乏しいなどの問題点があげられることで、
これは正しい知見に基づいて仕様を制定・構築しているというよりもむしろ理想とする入力ガジェットを勝手流に書き散らかした一種のフィクションのようなものであると言ったほうが正確であるということからきています。
しかし闇雲に創作の産物を一段低く見ているわけではなく、新しいコンセプトを生み出すうえでは世界観を提示してはたらきかけるという点で有用であると思いますし出発点である素朴な視点・「でにをはを別入力して文の区切り目を示すのはどうか」「用途・意図に応じた複数の変換キーを設けるのはどうか」ということをわかりやすく伝えるアプローチの一形態としてむしろ「創作物である」と言い切ってしまったほうが分かりやすいかと思います。
確立されたものを構成して見せるのではありませんし不確定のものを織り交ぜつつ提示していくのである意味創作としての色が出てくるのも当然の帰結といえます。
次にモノ言う顧客としてというのは至極当たり前なようですが「こんなものが欲しい」という全くストレートな欲求によるものからきています。
自動車産業を興したパイオニア、かのヘンリー・フォード氏が言ったとされる言葉に「もし顧客に彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう。」というものがあります。ちょっと皮肉めいた言葉ですが顧客は自分が真に欲するものをうまくイメージできないから供給側が顧客を引っ張って先進技術の旗振りを進めていくのだ…という気概が感じられます。
しかし昨今の商品事情などではビッグデータの解析による消費行動の解析手法により「観察することからニーズが見えてくる」というのに重きが置かれていて新提案は企業側からお膳立てするものだという風潮が生まれているのではないでしょうか?
そんな中では愚見かもしれませんが今では一般の者であっても情報の集積やアクセスのし易さも当時とは桁違いですのでもっと消費者側からの主体的な関与も見直される余地があってもよいかと思います。
特に日本語入力はまだまだ改善の余地のある分野であり世界標準のキーボードの制限から離れ根源的に理想のキーボードを追求するという試みもあってしかるべきです。
ペンタクラスタキーボードのコンセプトは入力機器としての側面をもつ一方さまざまな目的のキーをIMEと連動させて日本語の特質にフィットするよう機能させたものであり、分野横断的な視点のもとで構成されたものですのでとかくタコツボ化しやすい産業社会では生まれにくいものなのかもしれません。
しかし決して奇をてらったものではなくあくまで本筋・がっぷり四つの正攻法とブログ主は自認しつつ提案しているのであり理想のプロダクトを求めているのは企業だけではなく個人でも充分に寄与する可能性があることを見せていけたらいいかと思います。
そして最後に日本語入力の啓発者としてというのは自分にはとても及ばないものでありますし数多の関係者にも申し訳ない気持ちもあるのですが意を決して勝手ながら意識させていただきたいと思います。
というのはそもそもペンタクラスタキーボードの発想が、「人間の側が機械に歩み寄る」要素を多分にもっているからです。
従来のIMEでは入力された文の文法情報(助詞などの切れ目)や語義情報(よろづ)などをいちいち入力・選択することなどなくシンプルな手続きでかな漢字変換プロセスが行われていましたが、このキーボードではコンピュータと入力文以外のメタ情報を密にやりとりします。確かにでにをは別口入力では配置を工夫して親指打鍵を活用するなど入力リズムが狂わないように図っておりますが慣れるまでは助詞の別個入力は異質に感じてしまうかもしれませんし、三属性変換では通常変換も用意してはおりますが素早く目的の変換語句にたどり着くには三属性変換を駆使しなくてはなりません。
それでも従来の方法では誤変換が生じて結局は手直ししなくてはならない場合の困難を見据えれば、より"用心深い"やりかたとして正確な変換をするための手掛かりを随時ユーザーの側から提供していくことは誤変換をなくすという一大命題に取り組む手段としては甚だまっとうで理にかなったアプローチではないかと思います。
入力文をリテラルに読み込んで、単一の変換キーで変換候補を提示する…こういったわかりやすさも良い事は良いのですが正直ユーザーの側からやれることが少なすぎて意図の汲み取り不足や早合点で微妙なちぐはぐさを露呈する事態に何度も悩まされてきました。
目配りする要因が増してインプットの負荷は増えるかもしれませんが打鍵数自体はさほど変わりません。こういったディティールへの即応性をもたせたことにより「覚めじゃないサメだ」「お母さんにじゃなくてお母さん似だ」というのをカーソル移動訂正や愚直に変換候補がでるまでキーを連続押しするなどの手間をとらずに直接意図・文脈を意思表示してはたらきかけるというの現実に試みているのです。
もちろんこういった意思疎通を実現するうえではユーザーにIMEの動作としての文脈は今どういったものなのかを把握したうえで各種入力して頂くと、「これは通常変換してしまうと『無効』じゃなくて『剥こう』が出てしまうから気をつけよう」といった判断が先読みできますし、文法知識が求められるこんな場面…「『この』は連体詞だから別口入力『の』は付けずに『この』のままで入力しよう」といった判断が可能になるのです。
拙ブログではユーザーにもこのような背景知識・前提知識をIMEの動作との兼ね合いも掘り下げながら丁寧に解説していく義務があると認識しておりますし技術上のハイコンテクストなメカニズムをユーザーと共有することが望ましい関係性であると感じておりますので時には細部にこだわって解説していきたいと思います。
以上の3つの立場を掲げつつ、各界の先人達に導いていただけるよう視野を広げていきながら論述を進めていきたいと思います。
今後ともお付き合いのほどよろしくお願いいたします。