私は言語社会学者・鈴木孝夫氏のファンであります。このブログでもどことはなしに一節を引用していくくだりがあったりもします。
その魅力のわけを考えてみますと学説領域の研鑽のみにとどまらず、日常領域、異文化ウォッチのまなざしと常に対照・振幅があって浮き彫りになる問題意識というのがとっつきやすい誘因力というのを持っているように思います。
私の関心分野で好奇心の赴くままに鈴木氏に限らず漢字関連の書籍をあたっておりましたがトリビア的・教養的な知識の摂取には役立ったものの何か物足りない気がしていました。
その点鈴木氏の知見というものは言語社会学という学際もあってか文化と文化とが交錯する最前線の空気感というのがありますし国際的発信の重要性を説いているというのはまことに時機を得た提言でありました。
私が特に惹かれたエッセンスとしましては、以下のものがあります。
・ことばは、渾沌とした連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の分節を与え分類するはたらきを担っている
・年少者に合わせた親族名称(チコちゃんに叱られるでも紹介された)
・相手依存の自己規定
・「再命名」という用語は「レトロニム」という語に先立ってつくられた
特に注目する漢字については
・ラジオ型言語とテレビ型言語(→同音衝突の語の淘汰収斂のメカニズムに依らないどころか同一範疇の同音語であっても活躍舞台がある)
・難しい高級語彙でも基本漢字の組み合わせで何となく意味が分かる(知識層と一般層の分断を防ぐ効果)
などがあります。
漢字については拙いものではありますが当ブログ管理人ぴとてつなりの見解メモとして2,3補強材料を書き加えます。
1*ギリシャラテン語構成の造語だと基本語の語根がちょい長めだが漢字は同音異義語は増えるもののコンポーネント要素が簡素音韻で良い。長尺ストリングにも堪える
2*2拍漢語要素の末尾音には「イウキクチツン」の法則があるから例え未知語であってもチャンクの音韻パターンから漢語想起が助けられる
3*想起手段・インデックス回遊性の使い勝手が良い(音読み(イウキクチツン法則のひとかたまり)、訓読み(科化・私市の読み下しによる判別)、熟語のパーツで説明、漢字字形、部首、もちろん外来語介在想起もある)
4*外来語用言はサ変動詞や接尾辞-化などで容易に取り込める、規定語はナ形容詞や接尾辞-的で対応し品詞素性がゆれない、これもインデックス回遊性に寄与している
1について解説しますとたとえばgraminivorous(草食性)の構成要素は
gramin(草)+vor(食べる)+形容詞の接尾語(-ous)となっており語根がやや長尺であります。日本語漢語の草食性はそう、しょく、せい、と音韻がモーラ体系の中の位置づけとしては簡素な音韻で構成されており何より字面としてすっきりします。
2についてはさすがにイウキクチツンだからといって個々の漢字までわかるというのは言い過ぎですのでちょっと軌道修正しますとやまとことばと漢語の区別は音のヒントだけでわかるというのがありましてこれが第一前提になります。
やまとことばにはやまとことばの、漢語には漢語のイメージ喚起力というのがあってさらに漢語の複合語では二字漢語の語構成のパターンの認識(慣用的に分かる部分)と生産的要素の接辞との連結(配置的に分かる部分)が組み合わさっているので集合体としてのひと単語としても識別がつくということであります。
確かに「そう」「しょく」などパーツだけで見ると区別がつき辛いのですが「そうしょく」というひとつの構成で固有の識別もつきますしそれに[--性]や[--的]などの概念範疇も込みでやればより一層目鼻がつくというものです。
3の想起手段については音読みと訓読みがひとつの文字の中で結びつけられているうえに自由にトランス解釈を行き来できるということであります。また独立形態素なのか拘束形態素なのかの含みも訓読み/音読みには情報として持っており(右側主要部の原則/連濁/構文形成語彙の配置から理解)それらの見当をつけながら複合語の構成を読み解くというのも私達が普通におこなってきている事であります。
また、同音でイメージがつかめない場合には「のぎへんの科学のほうだよ」「チェンジのほうの変えるだよ」などと適宜補足してやれば済み、想起手段・想起チャンネルが多岐にわたっているという特徴があります。私はこれをインデックス回遊性と名付けました。
4のインデックス回遊性に寄与とありますが、サ変動詞やナ形容詞、接辞などのはたらきによって未知語難解語であっても文法形態の推定性が高まるとともに漢語やカタカナ語のもつ輪郭不明瞭なままで使っていても前述の推定性利便のフィルターをくぐり抜けての使用で識別されるという一点があるのでむやみにインデックス回遊の試みを強制されないことにつながることが間接的にプラスにはたらいているともいえるのです。
…以上の補強材料を加味したうえでこの枠組みがリテラル全般の基底骨組み的にあまねく影響力を及ぼす重量感というものをもっているというのが実感できるかと思います。
ただし、過度に視覚に依拠しているきらいもあるかとは思います。
ネットで関連情報を探索したところ、漢字の盲人に対する障害物としての側面に真正面から取り組む言説を見つけました。
耳できいてもわからないような専門用語は、すでに特権とむすびついている。非識字者や盲人にとっては「暗号のような表現」だからである。
…と、漢字の内包する不平等性、差別性の明白に存在しているという実態に対してわれわれが見落としている、いや故意に無視しているという指摘には考えさせられるものがあります。
この言説については鈴木氏と対立する、あるいは価値を毀損するものではないと自分に言い含めながらも決して過剰情緒的でなく採り上げる必要があるかと思いますので以下に文献名をメモしておきます。
「漢字という権威」あべ・やすし(2004)『社会言語学』4号より
ひとつには情報弱者としての視覚障害者の存在を含めたうえでデジタル社会においても言語方策の見直しを迫られる意見であるかと思います。
私にしましてもこの文献を知ったとき「今までペンタクラスタキーボードで取り組んでいたことは一体何だったのか」と自案の存在意義さえ揺らいでしまった衝撃的な指摘でありました。
今明快にこれらに対する返答を用意することはできません。二項対立的にカウンターパートを余儀なく受け持つという袋小路にも向かいたくはありません。
自身の範囲内でできることをやっていく、アンビバレントな渦中に身を置きながらも愚直に奮闘して前進していくことを目指すのみであります。
鈴木氏のもたらした世界観には感謝しております。そして見据える中で問題となって対峙しなくてはならない壁も現認しました。
論はスタティックなものではなくて磨き上げる過程としての論と論との間の応酬をして輪郭を際立たせていく対話的な営みであると信じております。
仔細にわたる相対化も結構な事でありますがいたずらに対立のコントラストを深めていってしまう裏腹さとは距離をとって
情緒としての包摂/抱合のるつぼを煮えたぎらせながら受忍していく…このような営みを「ヨンビカを歌う」と表現して自己と向かい合っていこうかと思います。
どこ--という接頭辞があります。(正確に言うと接頭辞的用法でしょうか)
このブログでも追いパクチーだとか弾丸東京ディズニーランド旅行みたいな具体語彙の接頭辞モノは取り扱ってきましたが、
ここへきてちょっと変わり種の不定接頭辞?、あるいは文法的接頭辞とでもいいますか、疑問形式をもつ接続様式であります。
これは「それってどこ情報?」みたいに談話性を裡にもつ語標識としても使われており、まあ疑問語の一形態としての位置づけなのかもしれませんが
私は派生語を容易に生み出す生産性に着目して接頭辞の1バリエーションとして捉えなおしていこうと思います。
まずはこちらをご覧ください。
どこ発信 どこ情報 どこ住み どこモデル どこ画面 どこジョーク どこ貨幣 どこチャンネル どこ配慮 どこ垢 どこアプリ
どこ投信 どこ自治体 どこフレーズ どこ回 どこグッズ どこつぶやき どこリリース どこ発祥 どこコネ どこ言論 どこサイト
どこ見解 どこ大会 どこ料理 どこアニマル どこ制作 どこスメル どこ国家 どこ組織 どこ提案 どこ世界線 どこ案件
これらは疑問文で使われるときのどこ(HL)のアクセントとは違い(箸と同じ)
どこ(LH)情報…みたいに(端と同じ)低高アクセントになっていますので、接辞に特徴的な形態変化を起こしているとみられます。
同様な視点で、何シリーズであるとか誰推しみたいに疑問詞横展開などもあるかと思いますが「どこ」が一番分析的にスッキリしていると思いますのでこれを積極的に採り上げてみた次第であります。
独特の効果とでもいうのでしょうか、英語だと「それどこ情報?」ってWhere did you know that information?みたいに動詞組み立ての疑問文になるのがより自然らしいとの事でありますが、
日本語の、特に接辞を利用したコンパクトな訊き方は名詞組み立て的でせっかちな感じがしてそれはそれで良いものであります。
…あれ?、何か聞いた話では「日本語は動詞中心の言語」っていうのを見た覚えがあるのですがこちらは本来的でない破格の用法だということなのでしょうか?
ちょっとわかりませんね。
何にせよ「どこ」「誰」といった文法上のパワーワードがくると全体構成的に構文影響力が強そうな制限要因というのが出てしまいがちなのでありますが
日本語は膠着語の流儀というのが行き届き過ぎていると言ったらよいのかメタ的、文法的な語でも容易に接辞使いできてしまうという融通無碍な一面を見たような気がします。
たとえば接辞でも「配信しようかな的な」「見える化」みたいに構文にかかる接尾辞であったりとかの例もありますよね。
今回の「どこ--」も、そういった接辞の、構文構成圧にも負けないフレーム力の強さを感じさせるテーマであったなあとあらためて思いました。
ここのところ接辞関連の記事をさぼっておりましたが、久々の材料投入であります。
今後も継続的に追っていこうと思いますのでもしよかったら接辞カテゴリにもご注目ください。
今回は去年読んだ書籍の中からの引用を多く含みます。とりあげた書籍にはボヤっとではありますが通底する共通性があります。
出発点はある危機感からのものです。
最近、「言葉の力が弱っていないか?」そう自問自答することが多くなってきています。
もちろんテキストコミュニケーション自体は隆盛を誇っておりますし
SNSなどでは炎上もありバズりもあり良くも悪くも賑やかに言葉が行き交っています。
かと思えば「ロジハラ」という想像だにしない言葉、論理で説得して何がいけないのか…理解に苦しむ現象も垣間見れます。
言葉が揺らいでいるのではなく「論理」が揺らいでいる…こう言い直した方がより正確なのかもしれません。
反動としてシンクロするのは「論破ブーム」の危うさに潜む、明快さに過度に依拠しているのは自信のなさの表れなのではないかという側面です。
人々がわかりやすいものに飛びついてしまうのは先行きの不透明なこの時代、確固たる拠り所を持てていないことの裏返しなのではないか
私達は皮肉なことに確かに論破という切れ味に関心を持ちつつも距離を置いた風を装って「けしからん風潮だ」とのたまわってはおりますが
見解の帰結が否定論に接地しているのか否かではなくすでにその構図・フレームに巻き込まれて一体化している時点で片棒を担がされていることに気づかないのです。
論理が軽んじられている、濫用されている…とカタチこそ違いますが根にあるところは一緒です。
論理のかわりに重視されることになったのは発言者の人的属性、つまり「何を言ったかより誰が言ったか」に重きが置かれる風潮です。
いや、別に人生訓だとか、経験から出た重みとかだったら別にいいんですけれど…誰が言ったかというのが大事だということは理解しています。
でも、革新的な価値観であるとか意外性のあることまで門前でフィルタリングしてしまって、真に面白いロジックを掬い取る器量というのが欠けてきているのではないでしょうか。
その背景には世相だとか空気だとか一過性の視点からは説明しえない、もっと深い歴史的な流れの中での理解が必要になってくると思います。
現代社会には行き詰まり感がまん延しているという状況があります。科学もそうです。人類は月にも到達しましたし量子力学も打ち建てましたがその後根幹的なパラダイムを変えるほどの画期的な変革は見られません。
音楽のコード進行にしてもそうです。ほとんどすべての進行は試し尽くされてしまった。あとは世界観だとかアレンジだとかパフォーマンスだとか本質的でないところの差別化でしか勝負できないのではないか。
まあ門外漢なんで深くへは踏み込めませんが言語以外の構築系においても多様性のその先の限界というのが分厚く立ちはだかっています。
浅学なものでポストモダンの事はよく分からないのでありますがこうして市井のいち小市民的ブロガーであるこの身にとってもポストモダンの不条理が身近に迫っている危機感を感じます。
先程の「何を言ったかより誰が言ったか」の傾向はリアルよりもはるか先行していると思われたネットの世界にも浸透してきています。
昔の2ちゃんねるや黎明期のアングラネット界隈にはには殺伐さや荒らしのカオスの只中にあっても純粋に言葉やロジックだけで説得・感化され得る場面というのが確かに感じられる場でありました。
今のSNSではより発信者というものが可視化されてネットとリアルは接近してしまってきており強者をより補強するだけのツールに成り下がってしまいました。
あれだけ可能性に溢れていたネットの世界でさえも現実世界に追従してしまっているのです。
嘆いているばかりではいられません。それがそうなら、こうした一連の諸現象の上位レイヤーにある影響要因というのをこの目で確かめてみる必要というのがありそうです。
われわれがどんな策をとれるのかどうかまではわかりませんが、現状の構造・図式を知ることで今後の展望を図る上での羅針盤になるのではないかとの期待を込めていよいよこの記事の導入に入ります。
まず1点目に紹介する書籍は
占いにはまる女性と若者 (青弓社ライブラリー)/板橋 作美
です。
現代に氾濫する占いとそれにのめり込む女性や若者の心理からはじまって、偶然の秩序化・比喩のはたらきの深い考察・ギャンブル観の男女差など論理的な背景を掘り下げた該博な書籍であり、
文化人類学/宗教人類学の観点から書かれ東京医科歯科大学教養部教授である板橋作美氏の著書となっております。
ここから長めの引用になりますが本記事の趣旨に援用できそうな時代的社会背景からの分析を紐解いていこうと思います。
p174-
生得的社会と獲得的社会
人間は社会的存在であって、かならず何らかの社会的役割や地位など、社会的なアイデンティティーをもっている。
その社会的地位は、大きく二種類ある。一つは生まれによって与えられるもので、生得的地位という。筆者であれば、男であり、△△という父と○○という母の子であり、日本国籍をもつ日本国民集団の一成員であるといったものだ。それらの社会的地位は変更できないものでもある。ただし、現在では男女は変更可能だし、同じく国籍も変えることはできる。
もう一つは、自分自身の力によって獲得する、たとえば職業などのような獲得的地位である。
人間は、たいていこの二種類の社会的地位を同時にもっているが、社会によっては、どちらか一方が支配的である場合もある。そして、どちらがより重要なのか、その違いによって生得的社会と獲得的社会に分けることがある。
身分制社会は生得的社会であり、生まれによって貴族とか平民とか決まってしまう。江戸時代の日本は生得的社会と言える。武士の子は武士、百姓の子は百姓である(実際には例外も少なからずあるが)。
(中略)
P177-
再生得的社会化
日本社会は明治以降、獲得的な社会の度合いが少しずつ強まり、そして、第二次世界大戦での敗戦によって、家族や大地主に代表されるような生得的に社会的地位を得る制度が廃止され、とくに戦後の混乱期には、能力と努力で、裸一貫から一代で財を築いた者が数多く出現した。
そのような時期に子どもから若者時代を過ごしてきた世代は、日本はきわめて獲得的な社会だと感じていたと思う。
どのような生まれだろうと、一生懸命勉強していい大学にいけば、いい就職ができ、いい給料を得ることができ、いい人生を送れる――多くの人はそう思っていた。
また、高校や大学にいかなくても、頑張ればいい生活が待っていると考えた。当時、地方から首都圏へ集団就職した中卒の若者たちが作った「若い根っこの会」は、そういう希望に燃えた人たちの集まりだった。それが日本の高度経済成長を支えてきた。
佐藤俊樹は『不平等社会日本』で、戦前までは、多くの人びとにとって「努力すればナントカなる」は夢であり、「努力してもしかたない」のが現実だった。
それが敗戦とその後の高度経済成長によって、「努力すればナントカなる」が急速に現実化していったと言っている。
ところが、ある時期から変化が起きる。戦後の高度成長期にはたしかに、日本は戦前に比べて「努力すればナントカなる」=「開かれた社会」になっていた。
だが近年、その開放性は急速に失われつつある。
社会の一〇パーセントからニ〇パーセントを占める上層を見ると、親と子の継承性が強まり、戦前以上に「努力してもしかたない」=「閉じた社会」になりつつあるというのである。
再び、生得的社会になってきたということだ。
(中略)
p179-
しかし、社会が再生得化したしたと言っても、もはやかつての身分社会のような生得的社会でもないということが、現在の問題なのではないか。
格差は昔からある。むしろ今より大きい格差だ。ただ、格差とは言わず、身分差、階級差と言った。格差の再生産も昔からある。生得的社会は格差を保存するのだから当然である。
違いは、差があってはいけないのだという社会観の有無だろう。
同じ人間でも百姓でも本家に生まれるのと分家に生まれるのでは格差があって当然、同じ本家に生まれても長男に生まれるか次男に生まれるかで格差があって当然だった。生得的社会なら、格差は当たり前なのである。
表向きは、誰でも自力でどのような職業、地位にでもつけるという獲得性を言いながら、実際には、親や家の経済力や職業や地位によってかなりが決まってしまうという生得性が強くなったことが問題なのではないのか。
名目上、獲得的社会だから問題なのである。ダメなやつは自己責任とされてしまう。生得的社会なら、そういう非難はされない。そういう身分に生まれたのだから、と。
(引用終わり)
(感想)
現代社会のの生きづらさ、格差の拡大のまさに根源となる歴史的包括的な考察が綴られている一節だと思います。
特に最後のほうの「表向き獲得的社会を謳っておきながら実質は生得的な構造を押し付けられているという矛盾」にはぐうの音も出ません。
社会構造についてこれ以上ああだこうだと管を巻くつもりはありませんがこうしたフェノメノン・予兆を察知してしかるべきサバイバルを生き抜く心構えをもつというのはわれわれにできるせめてもの策であります。
ここで詳説された大構造の力学がまずもって根底ではらたいていて、今記事で言う「言葉のチカラ・論理の力」の弱体化をもたらす遠因として端を発しているのではないでしょうか。
話は変わりますが、生まれた時からのデジタルネーティブであるZ世代の諸氏の方にはすでに当たり前だと言われてしまうかもしれませんが情報化社会の高度化というものが与える影響というものにも今さらながら驚嘆させられます。
情報がタダ同然で溢れかえっているというこの現実、たしかにこれが進むと複製拡散可能な情報の価値は相対的に低くなっていき不変装置としての人物・物理事物の稀少性というのが一段上がってくる格好になります。
言葉の価値自体は低下しているわけではありませんが信頼性の担保として発信者のパーソナリティ素性の認知はより重要になってきています。
発信スタイルの選択肢も広がってきました。動画や音声での伝達はより個人の肌感覚が反映される言外の情報を豊かにもっておりそこに本質が宿っている様相を呈しています。
これは逆転現象です。私は論旨としてロジックこそ第一であり人と論は分けて考えるべきだという見解を示してきたわけですがネット社会では価値・論旨の相対化というのが恐ろしいスピードで収斂してしまいまるでそれは記号の操作演算の所産程度の価値しか持たなくなってきているのです。
あらゆる論は何と対立するのかの含みや言論上での座標軸はどこなのかというのがたちどころに明らかにされてすぐに相対化されてしまいますし
価格.comやトリバゴのようにサービス・販売物は総じて横並びにまな板へのせられて徹底的に比較・吟味されて完結する社会というのは画一的なプロダクト社会をおしすすめていく烙印付与の宮殿としての機能しか持たない
…この意味するところは論理や存在意義というのは個人にとっての物語においては"出口"にしか過ぎず、展開深化の"入口"はもっぱら言語化できない属人的範疇がその役割を負っているということなのであります。
属人的範疇と言いましたが「個人」の力が増してきたというのでありません。
個人は分断されてきています。
大きな物語の喪失…そこには共感できる共有ベースがもはや成り立たないことのあらわれであります。
種粒的立ち回りを強要されることによる分断もあります。あなたは何者?という質問に答えるためにティピカルな自己像を喜々として作り上げる風潮も私はあまり好きではありません。
最近、「ブログはオワコン」などと言われているようなのではありますが、その対策として「SEO順位を上げたいのであれば雑記ブログではなく特化ブログを目指せ」などと言われる始末です。
個人が先頭によって立つのではなく読者の問題解決であるとかニーズ掘り出しを最優先すべしという読者ファーストの視点が盛んに叫ばれます。
何だか個人は置いてきぼりで、目に見えない欲望や規範という概念だけが可視化されているのに過ぎないのではないでしょうか。
これまでの話と矛盾するようなのではありますが、
論やロジックを先行させたい→論は発信者の人的属性と不可分→でも目に見えない圧で分断されている
という結論になってしまいました。これこそレトリックの陰謀論であります。レトリックは可視化できますが、単体では存在できず、俗物的「エーテル」との結びつきの中でしか相互作用できない。
…暫定的ではありますがちょっと偏向的ながらも歯がゆい現状認識となってしまいました。
レトリックが個人に属するものかどうかは
論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)/香西 秀信
の第四章「人と論とは別ではない」で深く掘り下げられています。
内容についてはここでは割愛しますが筆者は最初の私と同じく論理的思考では、ただ発話の内容のみが問題となり発話者は発話をなすための中身のない記号、装置にすぎないという見方を一方では見せながらも、
P9.
論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者にはそんなものはいらない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。
(引用終わり)
のっけからこのくだりをはじめとしてロジックの無力さを畳みかけてくるのですがこれがいちいち当てはまっているためもっともだと認めざるを得ないのですが
語り口は至って論理的であり論理を失ったわれわれが最後にすがれるのは「論より詭弁」なのだとして、テクニックとしてのレトリック(詭弁)をもっと活用しよう言う趣旨で書かれています。
言葉の力の先行きは一体どうなってしまうのでしょうか?
本稿ではその答えを見つけることはできなかったのですがここで取り上げた2冊の本が深い示唆を与えてくれたことに感謝したいと思います。
最後に思わぬ長文になってしまったのでこの記事を書く上で念頭に置いたトピック、文中のトピックなどについてエピローグ的に列挙しておこうと思います。
自分の道程をあとから確認しやすくしておくために…備忘録的箇条書きであります。
・ロジハラ
・論破ブーム
・ポストモダン
・生得的社会
・読解力の低下
・強い言葉のインフレ
・ググるよりタグる
・ブログはオワコンなのか
・サーチエンジンに好かれる文章って
・情報がタダ同然で溢れかえっている
・種粒的立ち回りを強要されることによる分断
・論より詭弁
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
(※2022/10/5追記)
[リンギミーム集めてみるます。あざざます!](近日投稿予定)文中に
レトリックの陰謀論 - P突堤2(当記事)
への参照があるが この原記事に新たな関連事項として最近見かけた以下の記事が目に留まり
大変感銘を受けたので参考リンクとして追加したいかと思います。
霞が関文学「なぜ恵まれた人間が数少ない社会の成り上がり回路を忌み嫌って閉ざそうとするのか。」霞が関バイオレット先生の魂の叫び
今記事で問題提起していたことにも深くリンクする「若者の格差の固定化」問題に新たな視点を与えてくれる記事です。
よそ様の記事ではありますが皆様とシェアしてご参考いただければ幸いです。
2022年明けましておめでとうございます。
まずはこの画像をご覧ください。
Yahoo!リアルタイム検索というアプリがすごく便利で使っているんですけれど通勤時とか寝る前とかにちょこちょこ見ています。
PC版Yahoo!のトップページにもありますけれどあれのアプリ版です。
今話題になっているワードに加えて気になるワードを登録することもできて瞬時に言及ツイートが一覧でずらずら流れてくるさまは圧巻です。
私は定点観測としてU-NEXTだとか誤変換だとかを調べているのですが瞬間最大風速が伸びると自動的にプッシュ通知してくれる設定もできます。
時間をおいて見ると言及ボリュームはたとえばウォークマンとiPodではどちらが多いのかどうかを比較することもできますので
人気や話題の度合いを定量的に探ることができて新しい発見があったりもしますので皆さんにもおすすめです。
twitterのアカウントがなくても大丈夫!!…っていうか定番のアプリですのでこのブログの読者さんであればもうご存知ですよね。
今回はこの便利な機能を活用して一種のリサーチをおこなってみました。
ことばをテーマにするこのブログ、アンテナはいつも張り巡らせておきたいところです。
単にバズワードというのではなくて、なんとなく汎用性のありそうな、それでいてフックのある言葉を独自にピックアップして
IT系・マネー系・人事ビジネス系・文化娯楽系・トレンド系・アカデミック系・社会学系などさまざまな角度から10個のワードを登録して
カウントゼロからよーいドンで24時間寝かせてみて増加ツイート数の数値をくらべてみました。
結果は以下の画像です↓
調査期間:2021年12月7日-12月8日
1.クリシェ 52
2.モメンタム 58
3.粒度 71
4.Z世代 772
5.バッファ 490
6.エンゲージメント 178
7.邂逅 868
8.言語学 288
9.ブルーオーシャン 137
10.呪詛 530
…いかがでしょうか?
意外なキーワードが1位になりましたね。
「邂逅」とは思いがけず巡りあう事、偶然の出会いなどを意味する単語。とありますがなんか厨ニ心をくすぐられるカッコいい言葉ですよね。
艦これをはじめとするゲーム、その他スマホゲームやTRPGなどでのキャラクターとの遭遇やシナリオ名などで近年頻用されているようです。
小洒落た文芸作品などでしか見ないような古風な表現かと思っていたのがいつの間にかデジタル娯楽分野で市民権を得ていたのですね。
ユーキャン新語・流行語大賞のトップ10に入った「Z世代」をおさえての1位ですからこれは価値があります。
その他のワードの意味・用法につきましては各自お調べください。
個人的には「粒度」がもう少し伸びてほしかったなー。
「呪詛」ってこんなに強いのか。でもこの言葉、確実にプレゼンスを増している空気を感じますね。
「クリシェ」はもともと音楽用語でしたけれども「ありきたりな決まり文句」として評論一般に使用場面が広がってすっかり定着しています。
「バッファ」にしても「粒度」にしてももともとIT用語/エンジニアリング用語だという例を考えると
専門的な用語が異分野適用や一般化適用を通してカジュアルに使われていく傾向というのがあるようです。
新しい言葉というのは、適度なモヤつきのあった方がポテンシャルがあって浸透しやすいのかもしれませんね。
意外な可能性を秘めた「モヤワード」。
これからも要注目、このブログでもつぶさにウォッチしていこうかと思います。