ここのところの未知語のまとめ記事がなかなか進まないので今回もお茶濁し記事でひとつよしなに…。
今回はアニメキャラやゲームキャラなどで酒を飲むと性格が変わるであるとか何かをきっかけに人格が豹変するであるとかをあらわすときに
略称・呼称として用いられている「ロボひろし」「家うまる」みたいな何らかのステイタス規定の語+人物名の複合語をとりあげてみたいと思います。
まずはとりあえず各所から集めた例を下に列挙してみます。
ロボひろし
家うまる
表遊戯
眼鏡蓮季
くしゃみランチ
コーヒーガンモ
祝福ミーティ*
未来トランクス*
殺意リュウ*
…などがその例です。
これらは普段とは違うという意味でのキャラクターのギャップ効果を狙って登場人物の背景に奥行きを与えるのに効果的な設定だと思われます。
着目定義の解説にある「ステイタス規定」の言葉通りキャラクターの性格変化ひいては状態変化や構成変化を表す語が前項についてそのキャラクターの変化要因を強く色彩づける役割を持っています。
文法的に区別しておきたい特徴としましては、規定成分の前項語が、「静かな千利休」みたいなイ形容詞・ナ形容詞の連体形をもってくる接続ではなく、
また「成金タコ社長」みたいに様態・属性的修飾成分がついて複合語をなしているものでもなく今回のケースはあくまで名詞的成分+人物名という生の接続を伴っている点があげられます。
まあ、*のつく例は名詞的であるかちょっと自信がありませんが一応ラインナップに入れておきます。
各キャラクターの人となり、豹変きっかけ要素につきましての詳しい解説は今回は割愛させていただきますのでご興味のある方は各自お調べください。
なお、「バイク本田」(こち亀)も候補にありましたが、こちらはバイクのHONDAと混同してしまいそうでしたので欄外候補にとどめておきたいかと思います。
一般的な複合語の例にもれず、「修飾部+主要部」となる構成の複合語でありながらも名詞+名詞の単純連結というよりは
「(家にいる時の)うまる」のように言外に助詞や句の省略や短縮といったプロセスが込められているというのが端的にあらわれている例であり興味深い現象であると言えるかと思います。
同じような構成のもっと広く適用できる例も多々あろうかとは思いますが、今回は人物名・キャラ名にかかる複合語の例について的を絞って考察してみました。
正式な日本語ではないのですが、動詞「違う」の口語形に「ちげーよ」というのがあります。
他にEに伸びる音便化をするものと言えば「すげー」「つえー」「ひでー」などどれも形容詞からのものがこのような性質を帯びています。
まあ、形容詞には「さみー」「わりー」「ほっそ」「でっか」「すくなっ」みたいなE音以外の変化や語幹のみを残す用法も割とメジャーではありますが懲りずに話を続けていきます。
そもそもしかし「違う」はあくまでも一般動詞(ワ行五段活用)、どこか境界をすり抜けて形容詞のようなふるまいをしているさまにはなんだか違和感をもってしまうのも無理もない話でありましょう。
これには「違う」という動詞のもつ認知的な性質が動詞のそれよりもむしろ静的な属性・様態を受け持つ形容詞の方にむしろ近い形式性をもっていることに起因しているのだというネット諸所の分析には頷けるところがあります。
さて「違う」の対置概念である「同じ」という語もこれと同様に特殊な立ち位置をもっていますが、認知的な違いというよりはむしろ品詞帰属が重層的になっているところが注目すべき点であります。
ここでは、「違う」が動詞ならばその対立概念である「同じ」も動詞じゃなきゃおかしいではないか、という直観はそれほど拘泥するほどの重要性はなく、今は捨て措いておくことにします。
(動詞「ある」の反対語「ない」は形容詞であるように、対立概念同士が品詞を異にするというのはそれほど珍しい事ではありません)
「同じく」という言い方があることから「同じ」はもともとシク活用の形容詞としてルーツがあり連体形では「同じ」「同じき」「同じかる」の3つが成立していますが、これが現代ではもっぱら「同じ」が連体接続を担うように変化してきています。
今でもかろうじて「同じい」を連体接続で用いる年配の方がわずかにおられるようですが…。こちらもどちらかというと形容詞由来系列の変化だと言えますね。
いにしえの昔、時がたつにつれてこの古典形容詞はいつしか形容動詞(ナ形容詞)へと変容していきます。古典形容詞時代の終止形「同じ」が体言化していったプロセスのなかで奇しくも連体形「同じ」とする同形併立を抱え込んだまま
やがて状態・性状を表す体言は「同じにあり」となり、「同じなり」となりました。文語形容動詞の誕生です。
形容詞での語幹「同じ」が好都合にも形容動詞の語幹「同じ」にそのままスライドしていって現代語の「同じだ」という形になります。これが名詞+だ のコピュラ文なのか語幹+活用語尾だ の形容動詞活用のものなのかは定かではありませんがカタチ上は形容動詞のフォームを取り込んでいったものだと思います。
しかし形容動詞とはいいながらも連体形の活用「同じな」というのは不自然な表現でありここでも終止形と同形の「同じ」だけで連体修飾します。ここで「同じ」という語を連体形をもたない形容動詞とする見方が可能であり、この特殊部分だけは別の語として特任的に連体詞あつかいとする説もあります。(同形のため混同もあるかと思いますが別扱いとしてです)
つまり「同じ」という言葉はもともとは形容詞であったものの名詞化の兆しもあらわれ、のちに形容動詞化されそれに伴う不備の説明材料として連体詞ともいえるという見方も混在した複雑な様相を呈したものであると言えるでしょう。
こちらは「違くない」「違かった」などのような口語での形容詞活用化はみられず(「同じくない」「同じかった」はナイ)、このことから見るに「同じ」は認知的に属性を表す側面よりも体言化がかなり進んで名詞的な振る舞いを好むようになったせいもあって形容詞的活用がみられないのだと思います。
そして最後にあげるのは特殊用言「好き」です。
こちらは背景として自動詞としての古語動詞「好く」が元にあるかとは思いますがこの「好く」のバリエーションの中で連用形から転じた「好き」だけが焦点化されて名詞としての側面が増強されていって今に至るものだと承知しております。
「好きこそものの上手なれ」ということばもあるように私の見解ではあえて名詞使いにこそ深層が底流しているものと捉えます。むしろ動詞的要素は薄れてきているのです。
もちろん「好き」は前出の慣用句以外では「好きが--」「好きを--」などのように主語になることはまれで、これは非名詞的な傾向であると言えます。
よって実質形容動詞の「好きだ」を核とした活用群が定着し連体機能の「好きな」が示す通り形容動詞たる風容を具えていることに相違はないと思いますが、ちょっと一言申し添えておきたい一面もございます。
それは形容動詞自体が「静かな」「きれいな」「穏やかな」みたいな和語的活用体を纏うものばかりではなく、「得な」「安全な」「感心な」みたいに語幹を単体で取り出したときの各語の語性が形態的に名詞(様態ではあるが)に準えることもできるからです。
その延長上で形容詞も名詞語幹を起点として活用変化させてみた「タフい」「雑い」「メタい」などの言語現象が確かに存在しています。
要するにここでいう「好き」ものっぺりと連続性をもつ和語的活用体の範疇のものではなくて、実は後者のような名詞的語幹の領域に組み込まれたうえでのっぺりじゃない、独立的名詞のもつ諸特性にむしろ適合する、との愚見であります。
「好き」という言葉には集約された喚起力がありそれだけ「好き」の概念化が名詞にパッケージされていく傾向を捉えたものだと思っていただけたら幸いであります。
考えてみれば名詞的語幹といっても漢語がその主たるもので、漢語は「健在」「無礼」のように何らかの様態、作用をもって配置されますが外来語ということもあってたとえ動作様態概念があったとしても字面のカタマリだけを見るとそれが輪郭不詳な名詞として存在感を発揮する効果があるのが漢語の面白いところです。
「好き」がおそらく形容動詞であろうという点では落ち着きましたが口語形では「違う」と同様に「好きくない」にみられるような形容詞的活用も一部ではされています。
誤用であるとか言葉の乱れであるとかの是非はここでは述べませんが、仮に形容詞の振る舞いをするのだとしたら属性形容詞/感情形容詞のうち感情形容詞の方を受け持つと考えるのは自然な成り行きです。
しかし同じ感情形容詞でも「とても旨い」「シクシク痛い」のような感情・感覚表現にはどこか主体の評価や認識が相対的に表出するものだというニュアンスが感じ取れますが、
この「好き」ということばは客観性からどこまでも離れてひたすら「好き」という概念の凝縮感、そして叙述-主体の照応というよりも「好きという概念-主体」の一体化を希求しているいわば「是非もない」客体性を帯びているものだと洞察します。
もはや形容詞的側面だのなんだのと言っているレベルではなく、活用派生の形態的特性とは一線を画してシンプルに「希求性用言」と名付けるのが唯一無二のこの言葉にふさわしいものと言えるでしょう。
希求性は転成名詞的用法においても衰えることはありません。「好きが増してる」「好きが加速する」のように格配置・構文化がなされていたとしてもその"まなざし性"(客体性では説明できない)は変わらず保持し続けているのです。
だいたい「好き」はそのまま「好き」と使っても結べるし「好きです」のように活用語尾をつけようが構わず、「好きすぎて」のように助動詞/複合動詞と結合しても連用形の自覚が全く伴うこともないですし最近では「すこすこのすこ」などのような大胆な屈折もみられる、まさに破格を地で行く用言だと思います。