わがままZyZyの徒然日記

ペットロスから抜けられない爺が日々の出来事や想いを書いてます
ほぼはちゅ達時々マリノスたまに音楽医薬世の中のこと

どうしたー

2020-06-08 18:28:18 | ウチの子たち
今朝はベランダに出ていくまでは昨日までとほとんど変わらなかったんだけど、その後がちょっとヘンだった。

いつもはだいたいケージの中に入るとコルクに登るんだけど、今日は床にペッタン。眠そうなのは昨日とおんなじ。

今朝もまた曇り。それどころか、直前まで雨が降ってたみたいで道路が濡れていた。
気温も少し低め。だから今日もランプ2灯をセット。
どこから見ても眠そうな目をしてる。
ベランダに出て3時間半後の9時半。この時間もまだお日様はいない。
まだ目の大きさが3分の2位。


11時ころになってようやく雲が切れてきてお日様が出てきたんだけど、なぜか今日はあまり積極的に日向に行かずボーっとしたまま。
仕方がないので、場所を動かして強制日向ぼっこ。


ちょっと心配になったので、ロメインレタスをちょっとだけあげてみたら、待ってたわ〜とばかりに即パクリ。食欲は相変わらずだった。
この後もこのままボーっとしてたんだけど、日向がなくなって1時間ほどした1時40分頃、自分から部屋に戻ってきた。


少し部屋の中をウロウロしようとしたけど、見るからに元気がなかったのでママが抱っこ。
これが4時半頃。寝るでもなく起きるでもなく、ずっとうつらうつらという感じだった。
でも、手はしっかり裏返ってたけどw。

タオルをはがして撮ったら「なにすんのよ〜」なご様子に。

で、この後はいつも通りにケージの寝床に戻しておやすみなさい。

うーん、今日はいったいどうしたーって感じの1日だった。
食欲はあったしずっと頭をあげて回りを見回してたし、具合が悪いっていう感じでもない。
でも、今日はまったく歩き回らず、歩いてもノソノソな感じで、とにかく覇気がなかった。
ベランダに出てボーっとしてただけだから、これなら部屋のケージの中にいてもおんなじだったんじゃね?って感じがしないでもないけど、少しでもお日様にあたれたから、ま、いいか。。。

朝起きてベランダに出た時、雨上がりで風がちょっと冷たくて、この時期にしては暗かったから、そのせいで一日中グダグダになっちゃた、なんてことはないだろうしねえ。
この10日間で、朝からお日様が出ていたのは先一昨日の1日だけ。あとは全部曇り。
これも関係あるかもしれないし、あの大暴れの日から少しずつダウン傾向かなとは感じていたので、その続きと言えば続きかな。
幸いにも明日は朝から晴れという予報になってるし、気温も高そうだから、明日どうなるかによって、また何かわかるだろう。



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コメント (8)
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コタンの歌

2020-06-08 15:22:02 | なんでもかんでも
このブログに時々コメントしていただいているsolo_pinさんという方のブログに、こんな記事があった。


なんでかよくわからないんだけど、とっても胸に沁みた。

正直、儂はアイヌのことはほとんど知らない。
北海道の先住民族で、言葉を始め固有の文化を持つこと、他の先住民族と同様に偏見や差別にさらされてきた歴史をもつこと、すぐに思いつくのはこのくらいか。
だから、アイヌのことについてどうのこうのと言うことはとてもできないんだけど、このブログの「気付かぬ差別」というタイトルには、何か感じるところがあったので、ちょっとだけ何か書いてみようと思った次第。

この番組、「仕事のBGMがアイヌの音楽じゃないのか」とか「アイヌのご飯じゃないのか」とか「アイヌ語は話さないのか」とか、まあ、テレビ番組の演出ということもあるんだろうけど、よくこういう言葉が出てくるな〜というのが最初の率直な感想。
確かに悪気なんか微塵もないんだろうけど、こういうのって、「私達とあなた達は違う存在」という無意識の意識から生まれてくるんだろうなと思った。
昔の差別は開拓のためとか直接利害に絡むことも多かったんだと思うけど、今の差別は、客観的な理由はなくて、ほとんどが感情的?生理的?といったことから生まれてるんじゃないかな。そしてそれには意識的なものと無意識なものがある。

もちろん、アイヌ以外のことでも同じだと思う。
例えば今回のコロナ。医療従事者とかその家族への差別、これは意識しての差別だろうけど、明らかに感情的あるいは生理的なことが原因だよね。
人種差別だってそうでしょ? 実は合理的な理由なんかないのに、自分と違うものは嫌だ、許せないっていう、そういう感情的なところから起きる。
もちろん人間誰しもそういう一面があると思う。でも、それを実際にあからさまに表に出してしまうのは、「相手がどう思うか」とか「自分がやられたらどう思うかとか」とか、要するに「相手の立場に立つ」ことができないからだと思う。

仏教の四摂法、特に「同時 」ということがこれを言っている。ただ、「同事」というのは「相手の立場に立つこと」と言われていることが多いけど、儂はこれにはなんとなく違和感がある。「相手の立場」があるのであればそこには「自分の立場」もあるので、結局は対立の芽がある?と思ってしまう。(リクツッポインデス
本当の意味での相手の立場に立つというのは、相手に共感すること、自分が相手と一つになることでしょ。


以前に、「お母さんが赤ちゃんをあやす時に、赤ちゃんの顔を見ながら赤ちゃんと一緒に口を開けて『バー』とやる。あれはお母さんが赤ちゃんに共感して無意識でやっていることであり、あれこそが同時ということ。」という話を、仏教の本で読んだかお坊様に聞いたかした。(どっちだったか思い出せないw)
こういうことができれば、差別なんてなくなるはずだと思うんだけどね。
あと、差別の話っていうのは往々にして政治的な意味合いを絡めて議論されることも多いと思うんだけど、儂、これはちょっと違うと思う。
差別は政治なんかとは全く関係がない、人間そのものとしての問題と思うんだけどね。


solo_pinさんのこの記事を読んだ時に、実はもう一つ頭に浮かんだものがある。
それは、湯山昭という作曲家が作曲した「混声合唱とピアノのためのバラード『コタンの歌』」という合唱曲のこと。
この曲、今から50年も前に作られた曲で、アイヌの民族音楽のメロディやリズムを取り入れ、詩にもアイヌの言葉が使われている。構成的にも、混声7部だったり複雑な和声やリズムだったり(当時としてはw)するし、おまけに長い。
儂がそろそろ本格的に合唱に目覚め始めた頃wに出てきた曲でもあり、初めて聞いた時は結構な衝撃だった。
だから、アイヌという言葉を聞くと、いつも反射的にこの曲が頭に浮かんでくる。
これが儂が初めて触れたアイヌの文化の一端かもしれない。

儂が好きなのは、3曲目の「熊の坐歌」と4曲目の「アツシの歌」かな。

Ⅰ.船漕ぎ歌
 
Ⅱ.マリモの歌
 
Ⅲ.熊の坐歌(ウポポ)
Ⅳ.アツシの歌
 
Ⅴ.臼搗き歌
  
Ⅵ.ムックリの歌
 
Ⅶ.パナンペ・ペナンペのリムセ
 
Ⅷ.カエルの子守歌

文化というものは、変化はすれど滅びてしまってはいけないものだと思う。
コメント (4)
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