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わがままZyZyの徒然日記

ペットロスから抜けられない爺が日々の出来事や想いを書いてます
ほぼはちゅ達時々マリノスたまに音楽医薬世の中のこと

五七日

2022-04-14 17:27:13 | ウチの子たち
今日はぼあちゃんの五七日。
三十五日という言い方のほうが一般的かな。
この日は閻羅王と言う王が登場。この閻羅王っていうのは有名な閻魔大王のことだって。閻魔大王の宮殿は人間の世界の地下約500由旬にあるそうで、その広さも500由旬四方らしい。500由旬って3500~4000km位?
あの子、今、そんな深い所にいるのか!? もしそうだとしたら、あの子にとって一番辛いのはお日様がないことだな。

「暗いよー、狭いよー」 いや、狭くはないな。この宮殿、メッチャ広いわw。
ちなみに、写真の上の方に写ってるロープのようなものは、この子の尻尾ですw。

で、閻魔大王は有名な閻魔帳(最近は死語?)なるものを開き、生前のあらゆる罪状をおっそろしい声で読み上げるんだと。
この閻魔帳、実は倶生神という、首から上だけしかない男と女の神様の報告によって作成されてるらしい。男の頭をした神様はすべての悪業を、女の頭をした神様はすべての善業を記憶してるんだって。うーん、これはスゴイ、こんな仕掛けがあったらたまらんなあw。

まあ、この子、生前、ゴジラとやり合ってるから大丈夫だろw。(イミフメイ

そして、閻魔大王がお裁きに使う道具がもう一つ、浄玻璃の鏡という大きな水晶の鏡。この鏡には、ありとあらゆる悪行や嘘がすべて映し出されちゃうらしい。なんと、ただ頭で考えただけの悪いことも映るんだって! 実際にやっちゃったことは仕方がないとしても、考えただけでもっていうのは、ちょっとヤバいなあw。
今更見たくもない、鏡に映った自分の悪行三昧を無理矢理見せられ、さらに地獄の淵まで連れて行かれて罪を償ってこいと脅かされ、死者は「もうしません、もうしません、許して下さい~」と懇願するらしい。



でも、同時に、この鏡には遺族が行っている追善供養の様子も映し出されるんだって。すると閻魔大王がこれに免じて地獄行きを許してくれて、死者は感謝で血の涙を流すと。
血の涙って、実際、目から血を吹き出すトカゲもいるから、あながち、そんなバカなっていうことでもないかも。

ちなみに、フトアゴの「出目」もこれに関係してて、血圧の調節に関わってるんじゃないかというもある。
うちの子が亡くなるまでの状況を見てて、「出目」は甘く見ない方がいいかもと思った。でも、まったく何もわかってないことも事実なので、現状ではどうしようもないんだけどね。

これが閻魔様もビックリの出目。「うわー、オマエ顔が怖いぞー! 今すぐここから出て行けー!」なんてなっちゃうかもw。

そして話を元に戻すと、

鏡に映った追善供養の様子と血の涙を流すほどの感謝の想いから、だいたいこの五七日で成仏するらしい。
そして、ここでも結審しなければ、次(六七日)の王の所に送られるんだって。あるいは、追善供養も感謝も不十分だとそのまま地獄なのかな。。。
まあ、あの子はもうどこかのお浄土にいると思うんだけど、どこのお浄土に行ったのかなあ。四七日の時には「極楽浄土に 」と書いたけど、よく考えたらそうとは限らないもんね。

あの子にとっての一番のお浄土は、やっぱりママの腕の中だったかも。


あの子がいなくなってから1ヵ月以上経った。よく、「心にぽっかりと穴があいたような」と言うけれど、時間が経つにつれて、体の一部がなくなっちゃったような感覚になってきてる。
そして、「長生きさせてあげられなかった」という思いが、どうしても頭から離れない。

コメント (8)
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心のままに書いてみた

2022-04-14 10:31:57 | 音楽のこと
今日はあの子の五七日。これについてはまた後で書くけど、その前にちょっとだけ。

今朝、久しぶりにアンジェラ・ヒューイットの弾くバッハを聴いてる。
以前にも書いたけど、あの子が調子を落としてから約一ヵ月、毎日午前中はずっとヒューイットの弾くバッハのピアノ曲を流していた。一番の理由は、あの子が少し穏やかになるように感じたから。
そして、あの子が亡くなってからは、それがマーラーに代わった。これは、儂の気持ちに一番寄り添ってくれるように感じたから。

今朝バッハをかける時、「悲しくて聴けなかったらどうしよう。。。」と思いながら聴き始めた。
でも、不思議とそうはならず、ただ静かに心に沁みたので、少し安心した。

音楽って、なにかイベントがあった時に聴いた同じ曲を後から聴くと、その時の感情が蘇ってくることが多い。
でも、例えそれが悲しい記憶でも、その曲を聴けなくなるっていうのはイヤだなと思っている。

今までの儂の人生で一番悲しい思い出の曲は、大中恩の「わたりどり」という合唱曲。


今から35年ほど前のこと、大学時代に合唱を通じて知り合いになった友人が突然亡くなった。まだ大学院生だった。
彼は儂とは別の大学の合唱部に所属していて、儂の大学の合唱部とも、時々一緒に練習したりステージに立ったり、一緒に合宿したりもしていた。
こんなことを言うと怒られそうだけど、実は自分の大学の友人達よりもそこの連中の方が、たくさん合唱や音楽の話ができて、一緒にいて楽しかった。もちろん亡くなった彼もそうだった。
その彼の葬儀の時、火葬場で歌ったのが「わたりどり」。ボロボロに泣いていたので、ほとんど歌にはならなかったけど。
今でもこの曲を聴いたり歌ったりすると、あの時の悲しい記憶と映像だけがはっきりと蘇る。でも、悲しくて聴けない、歌えないということはない。
儂、これが音楽の持つ力なんじゃないかと思ってる。

これ、学生時代にママが彼からもらった人形。

ちなみに、儂とママは同級生でママも同じ合唱部w。
裏には彼の似顔絵とメッセージが書かれているんだけど、もうかなり古くなっちゃって読めなくなったなあ。


あの子の五七日のことやバッハのピアノ曲のことを考えているうちに、なぜか、連想ゲームのように彼の事が思い出された。
これもなにかのご縁かなと思ったので、心のままに書いてみた。


つまらない話ですみません。こういう昔話をするのは、年取った証拠ですわ。

コメント (6)
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