先月、大好きな父が他界した。93歳で、病気ではなく老衰だった。お世話になっていた施設で、死亡を確認したのはその施設のドクターである息子だった。
先月初めに、父が危険な状態だと弟から連絡があって、妹の家族も私の家族も駆けつけた。でも、父は面会に来た孫たちや孫のお嫁さんに手を振ってくれたので驚いた。
そこから妹と私は実家に泊まり込み、連日バスで施設に面会に出かけた。その間にもまた孫たちがやって来たりして、父はどうも子どもよりも孫に対して反応がよかった。途中、私は一晩だけ熱を出したりもしたが、面会は2週間続いた。
そして、いよいよ危ないという連絡が入り、途中から同じく実家に泊まり込んでいた夫の車で、真夜中の施設に駆けつけた。
その後、3回くらい本気のお別れのシーンがあったのだが、父は奇跡の頑張りで手を振ってくれようとまでしていた。
でも、椅子でうたた寝しかできない状態が続いたので、みんな疲労がほぼ極限に達していて、はっと気付くと自分も自分以外のみんなも椅子に座ったまま眠っていて、父だけがハァハァいって苦しんでいたりした。
父の状態がいくらか上向きだったので、父に向かって「みんな疲れて死にそうだから、いったん家に帰るね。またすぐ来るからね」と言うと、父が大きく首を横に振った。え? 今までずっと聞こえてたんですか?
その夜は実家に戻り布団で寝た。横になって眠るのが、こんなに幸せなことだとは知らなかった。
翌日、また父に面会に行った。父はまたハァハァいっていたが、胸をさすると落ち着いた。父の部屋のアレンジメントが枯れそうだったので、夫にいつものお花屋さんに連れて行ってもらい、アレンジメントを注文した。もう夕方だったので、明日施設に届けてくださるということだった。
でも、アレンジメントは間に合わなかった。父の部屋にお花が届く前に、父は遠くに行ってしまった。
父が亡くなった時も、お別れの会の時も、私はなぜか泣けなかった。
最初に父が危険な状態だという連絡が入るちょうどその頃、私は病院に行く予定だった。
私は両方の乳房の中にブドウのふさ状に嚢胞があり、そこに水のようなものが溜まってシコリのようになることが度々あった。だが今度のシコリはいつもよりかなり大きく、いつもより弾力がない気がしていた。
父が旅立って10日たち、いつもお世話になっていて前回の嚢胞の時も大きな病院に紹介状を書いてくださった実家の近くの診療所の先生に、前回と同じ先生に紹介状を書いていただいた。
診察を受け、左だけではなく右の乳房も検査することになった。ぜんぜん自覚症状のなかった右側の方に、怪しい影が写っていたからだ。
そして、予想していなかった右側の乳房の中の影は、癌だった。まだパチンコ玉くらいの大きさらしい。嚢胞のこともあるので、風呂に入るたびに胸の状態は確認していたのに、まったく気づかなかった。
まだ実家のいろいろな手続きでバタバタしている状態なのに、さらにバタバタすることになってしまった。
施設から戻ってきた父の服を順番に洗濯し、いったん引き出しにしまっている。ウルトラライトダウンのベストがあったので、それを着て庭仕事をする。きのうは暖かかったので、汗だくになった。
私は、いつになったら泣けるのだろう。父のことが、大好きだった。
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