ここのところ毎日のように母親がため息交じりに言う言葉
「しんちゃ(亡くなった職人さん)はどうなった? 死んじゃったのか?
(彼の)娘はどうしとる? まぁここには住んどらんのか?」
「職人さんは5年前に亡くなったの。 娘はこの地に未練はなくなって春日井で一人で暮らしとるの」
僕は毎日同じ答えを返す
「お墓参りに行ったこともない」 と繰り返すようになった
今日はデイサービスの日
見送ったあとスマホに残ってる職人さんの息子の番号を呼び出してタッチした
「ごめんよ いつでもいいから君の都合のいい時に僕と母親をお父さんのお墓に連れて行ってくれんかね?」
「今日休みだからもしよかったら・・・」
今日は午後2時半から自宅に戻って引っ越しする子の部屋の引き渡しと立ち合いがある
今まで一度も参加したことなかったけど初めて行く約束をしていた
夕方なら行ける
「4時のデイサービスから帰ってくるはずだからそのまま行ってもいいですか?」
「はいわかりました」
というわけで初めての立ち合い
205の女の子
9年間いてくれたけど色々なことがあった
時々滞納して管理会社から取り立ててもらった
一時、連絡が取れないことがあって警官に来てもらって部屋に入ったこともある
この部屋から出てきた友達が玄関のガラスドアを蹴破ってガラスの散乱を見たことも
でもだいぶ落ち着いてきた
ここ3年くらいは管理会社の方で全部集金をしてくれるようになったので滞納があるかどうかも知らない
多分大丈夫だろう
終わったのが3時15分
それからネジ屋に行って要件を済ませ
もう一度息子君に電話
もう待ってられないのでデイまで車で迎えに行った
何にも事情を知らない母親はあたふたしながら乗車
車の中で「職人さんのお墓参りをする」と言ったら泣き出した
うれしいうれしいを繰り返し、途中で花を買ったらそれを抱きしめてまた泣いた
職人さんは真吉という名前だったのでうちでの呼び名は「しんちゃ」だった
昭和15年10月15日?生まれの彼は中学を出てすぐにうちの工場に来た
計算すると昭和30年に15歳になるのだから、昭和31年の春にやってきたことになる
母は24歳だった 僕を産んで妹も産んだ翌年
それから73になるまで58年間うちで働いてくれていてそしてそれで終わる
朝は一番に来て廃材の処理をしながら僕らが来るまでに一仕事 そんな生活が最後まで続いた
だから母はこの人に全幅の信頼を寄せていた
うちで死なせてしまった感が強く、感謝と共に申し訳なさまで抱いているようだ
だから一度お墓参りをしたかったという野望
それを真摯に受け止められなかった自分の汚点
それを遅まきながら挽回しようとしただけなのに たくさんのありがとうと親孝行という言葉をもらってしまった
泣き顔のまま墓石に近づき心行くまで手を合わせ、新たな感謝をしてきました
きっと職人さんも喜んでくれたんではないでしょうか?
今日は心穏やかです。
「しんちゃ(亡くなった職人さん)はどうなった? 死んじゃったのか?
(彼の)娘はどうしとる? まぁここには住んどらんのか?」
「職人さんは5年前に亡くなったの。 娘はこの地に未練はなくなって春日井で一人で暮らしとるの」
僕は毎日同じ答えを返す
「お墓参りに行ったこともない」 と繰り返すようになった
今日はデイサービスの日
見送ったあとスマホに残ってる職人さんの息子の番号を呼び出してタッチした
「ごめんよ いつでもいいから君の都合のいい時に僕と母親をお父さんのお墓に連れて行ってくれんかね?」
「今日休みだからもしよかったら・・・」
今日は午後2時半から自宅に戻って引っ越しする子の部屋の引き渡しと立ち合いがある
今まで一度も参加したことなかったけど初めて行く約束をしていた
夕方なら行ける
「4時のデイサービスから帰ってくるはずだからそのまま行ってもいいですか?」
「はいわかりました」
というわけで初めての立ち合い
205の女の子
9年間いてくれたけど色々なことがあった
時々滞納して管理会社から取り立ててもらった
一時、連絡が取れないことがあって警官に来てもらって部屋に入ったこともある
この部屋から出てきた友達が玄関のガラスドアを蹴破ってガラスの散乱を見たことも
でもだいぶ落ち着いてきた
ここ3年くらいは管理会社の方で全部集金をしてくれるようになったので滞納があるかどうかも知らない
多分大丈夫だろう
終わったのが3時15分
それからネジ屋に行って要件を済ませ
もう一度息子君に電話
もう待ってられないのでデイまで車で迎えに行った
何にも事情を知らない母親はあたふたしながら乗車
車の中で「職人さんのお墓参りをする」と言ったら泣き出した
うれしいうれしいを繰り返し、途中で花を買ったらそれを抱きしめてまた泣いた
職人さんは真吉という名前だったのでうちでの呼び名は「しんちゃ」だった
昭和15年10月15日?生まれの彼は中学を出てすぐにうちの工場に来た
計算すると昭和30年に15歳になるのだから、昭和31年の春にやってきたことになる
母は24歳だった 僕を産んで妹も産んだ翌年
それから73になるまで58年間うちで働いてくれていてそしてそれで終わる
朝は一番に来て廃材の処理をしながら僕らが来るまでに一仕事 そんな生活が最後まで続いた
だから母はこの人に全幅の信頼を寄せていた
うちで死なせてしまった感が強く、感謝と共に申し訳なさまで抱いているようだ
だから一度お墓参りをしたかったという野望
それを真摯に受け止められなかった自分の汚点
それを遅まきながら挽回しようとしただけなのに たくさんのありがとうと親孝行という言葉をもらってしまった
泣き顔のまま墓石に近づき心行くまで手を合わせ、新たな感謝をしてきました
きっと職人さんも喜んでくれたんではないでしょうか?
今日は心穏やかです。