つぎに、実相の世界の第三の特徴は、宇麻志阿斯詞備比古遅神(うましあしかび
ひこぢのかみ)といわれるこの神の名(みな)によって現れておりますように、
無限創造の働(はたらき)、無限のものを産出(うみだ)す働(はたらき)、
これが実相の世界の特徴でありまして、
この実相の世界を単なる空(くう)の世界であって何もない‘からっぽ’のもので
あると考えてはならないのであります。感覚をもって見ると実相の世界は見えない
のでありますから、『空(くう)』と云(い)ったりしますけれども、
『空(くう)』の奥に『無限相(むげんそう)』無限の創造があることを
知らなければならないのであります。
若(も)しその奥に妙有(みょうう)の無限相がないところの『空(くう)』が
実相でありましたならば、吾々が実相に一致したら‘からっぽ’になって
死骸のように灰身滅智(けしんめっち)(編註・身を灰にして、智を滅して涅槃に
入ること。小乗仏教の理想とされる)を喜んで山へでも籠(こも)るほか仕方がない。
それを吾々が実相を体得することであると考えるのは間違(まちがい)であります。
実相に一致するのには、宇麻志阿斯詞備(うましあしかび)の働(はたらき)、
無限創造の働(はたらき)というものがなければならないのであります。
病気療養に安静療法というのがあります。安静療法でじっと静かにしているのは
この空(くう)の働(はたらき)でありますけれども、その空(くう)に捉(とら)われて
しまっては駄目であって、病気の或る期間は安静を必要とする時期もありますが、
やがて安静から動き出して来る働(はたらき)、無限創造の働(はたらき)がなければ
ならないのであります。
吾々は動静(どうせい)調和することによって生命を獲得し、価値を発見するという
事が出来るのでありますけれども、唯(ただ)じっとしているという事によっては、
生命は生きて来ないのであります。生命の本体は動(どう)であることに注意しなければ
なりません。
空観(くうかん)によって空(くう)を観(かん)ずるのも動(どう)を
招(よ)び出すためであります。『生長の家』の実相観(じっそうかん)を
修(しゅう)していますと、生命の実相(ほんとのすがた)は動(どう)であって
静(せい)でないという事が判(わか)って来るのであります。
これは‘ちゃん’と『古事記』にこの通り書いてあるのでありまして、
『独神(ひとりがみ)成(な)りませる神』即ち絶対の神というのは
単なる『静(せい)』ではない、無限創造の『動(どう)』なのであります。
何だか絶対と申しますと『静(せい)』見たいに思っている人が多いようですけれども、
絶対は 動(どう)である、ベルグソン(編註・一八五九年生まれ。フランスの哲学者。
「生の飛躍」を唱え、その哲学は「生の哲学」と呼ばれる。
一九二七年ノーベル文学賞受賞)の説いたように創造的進化の世界なのであります。
無限に創造して無限に活(い)き活(い)きと活機(かっき)臨々(りんりん)として
生きているのが実相の世界なのであります。
『 古事記と日本国の世界的使命 』 ( 85~87頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
ひこぢのかみ)といわれるこの神の名(みな)によって現れておりますように、
無限創造の働(はたらき)、無限のものを産出(うみだ)す働(はたらき)、
これが実相の世界の特徴でありまして、
この実相の世界を単なる空(くう)の世界であって何もない‘からっぽ’のもので
あると考えてはならないのであります。感覚をもって見ると実相の世界は見えない
のでありますから、『空(くう)』と云(い)ったりしますけれども、
『空(くう)』の奥に『無限相(むげんそう)』無限の創造があることを
知らなければならないのであります。
若(も)しその奥に妙有(みょうう)の無限相がないところの『空(くう)』が
実相でありましたならば、吾々が実相に一致したら‘からっぽ’になって
死骸のように灰身滅智(けしんめっち)(編註・身を灰にして、智を滅して涅槃に
入ること。小乗仏教の理想とされる)を喜んで山へでも籠(こも)るほか仕方がない。
それを吾々が実相を体得することであると考えるのは間違(まちがい)であります。
実相に一致するのには、宇麻志阿斯詞備(うましあしかび)の働(はたらき)、
無限創造の働(はたらき)というものがなければならないのであります。
病気療養に安静療法というのがあります。安静療法でじっと静かにしているのは
この空(くう)の働(はたらき)でありますけれども、その空(くう)に捉(とら)われて
しまっては駄目であって、病気の或る期間は安静を必要とする時期もありますが、
やがて安静から動き出して来る働(はたらき)、無限創造の働(はたらき)がなければ
ならないのであります。
吾々は動静(どうせい)調和することによって生命を獲得し、価値を発見するという
事が出来るのでありますけれども、唯(ただ)じっとしているという事によっては、
生命は生きて来ないのであります。生命の本体は動(どう)であることに注意しなければ
なりません。
空観(くうかん)によって空(くう)を観(かん)ずるのも動(どう)を
招(よ)び出すためであります。『生長の家』の実相観(じっそうかん)を
修(しゅう)していますと、生命の実相(ほんとのすがた)は動(どう)であって
静(せい)でないという事が判(わか)って来るのであります。
これは‘ちゃん’と『古事記』にこの通り書いてあるのでありまして、
『独神(ひとりがみ)成(な)りませる神』即ち絶対の神というのは
単なる『静(せい)』ではない、無限創造の『動(どう)』なのであります。
何だか絶対と申しますと『静(せい)』見たいに思っている人が多いようですけれども、
絶対は 動(どう)である、ベルグソン(編註・一八五九年生まれ。フランスの哲学者。
「生の飛躍」を唱え、その哲学は「生の哲学」と呼ばれる。
一九二七年ノーベル文学賞受賞)の説いたように創造的進化の世界なのであります。
無限に創造して無限に活(い)き活(い)きと活機(かっき)臨々(りんりん)として
生きているのが実相の世界なのであります。
『 古事記と日本国の世界的使命 』 ( 85~87頁 ) 谷 口 雅 春 先 生